榎(えのき)って、普通に見かける木ですが、
大木になりますので、日本の平地の、代表的な樹木です。
国蝶と言われるタテハチョウ科の大紫(おおむらさき)が、
幼虫の頃に、榎(えのき)の葉を食べますので、
この木がなければ、綺麗な蝶々も死にます。
榎の漢字は、国字と言われて、日本人が作りましたが、
真夏の木陰が恋しいので、こういう字になったそうです。
夏の木です。
そろそろ、実が、色づいて来ました。
人間も食べられますから、小鳥が好きなのは、当たり前です。
*** ***
統合失調症を見れば、わかりますが、
みんなと一緒の価値観に、合わせなければ、
みんなと一緒の事実は、認識されません。
自分だけの価値観を、確信していると、
自分だけの事実が、はっきりと認識されますから、
精神病院にぶち込まれます。
朧気(おぼろげ)にしか、認識されなければ、
牢屋で済むかも知れませんが、首吊りにされても知りません。
事実の中でも、
目で見て、手で触って、耳で聞いて知る種類の、
空間的な相互関係が、みんなと違えば、
幻聴や幻視などの、幻覚と言われます。
何を原因として、何を結果とするかの、
時間的な因果関係も、心の中の事実と言われますので、
みんなと違えば、妄想と言われます。
認識って、これとあれとを、くっつけて、
一つのものにすることですから、足し算と同じです。
二つのものに共通点があり、同じであるから、
一つに纏めて、整理整頓します。
別の言い方をすると、
一つのものを、これとあれとに分割して、仔細に知りますから、
一つのものの中身を、次々に分割して、分類するのと、同じです。
くっつけるのと、離すのとは、一対(いっつい)の言葉になります。
物事(ものごと)を、くっつけたり、離したりするのが、
認識の意味ですけれど、普通には、知ると言います。
感覚器官を経て、知られた内容が、事実と言われるだけでなく、
原因と結果のように、物事を知る時間の順番も、
心の中の事実に感じられますので、自分と言われます。
物事(ものごと)に適用される分類法には、
無数の種類がありますので、
価値観によって、適用される分類の順番が異なり、
知る順番が違います。
分類って、共通点に纏めることですから、
何を、共通点とするかっていう価値が違えば、
空間的な事実が違って見えるだけでなく、
時間的な心の中の事実が異なります。
心の中の事実が違うって、
ようするに、心が違い、別人であるってことですから、
自分っていう意識を持つのは、
物事を、原因と結果という時間によって、纏めることです。
適用される共通点の順番のことなの。
永遠の時間でなければ、適用された共通点の違いにより、
知られた中身が、全然違うのは、当たり前です。
人間の個体は、みんな、短い時間の内に、死にますから、
時間は、自分という心と、同じに感じられるって、
昔から、言われて来ました。
人それぞれの、価値の違いが表れますけれど、
みんなに合わせなければ、妄想と言われますから、
人生は面倒臭い。
人それぞれの違いって、境遇の違いでなければ、
体の表面や内側の、エステティックな違いなのに、
人間は、心の違いと、思い込んでいますから、
あほに違いないって、動物は言っているそうです。
ドリトル先生や、動物農場のオーウェルって人に、聞きました。
感覚器官を経た事実と、自分と言われる事実とを、区別するために、
客観的事実と主観的事実って、言うこともあります。
空間と時間や、相互関係と因果関係などと、言うこともあります。
くっつけたり離したり、と言うのは、面倒臭いので、
くっつける、と言えば、両方の意味を、表しているかも知れません。
足し算と言えば、
引き算や、掛け算や、割り算の意味も、含んでいるかも知れません。
わたしたちは、感覚器官を経て、事実を知るだけでなく、
論理と言われる方法を使い、間接的に、物事を知ります。
抽象語の意味は、事実と違いますけれど、
顕微鏡を使い、目で見て知るのは、
間接的な知覚ですから、抽象語に似ています。
コンタクトレンズや眼鏡を使っている人の視覚は、
抽象語の世界に、暮らしているのかも知れません。
レンズは、論理と同じ役目を、果たしていますが、
癖(くせ)や習慣になっていると、
レンズや論理を、意識しません。
物事(ものごと)を、くっつけたり離したりして、
事実を知る時に、論理を使うのは、
物理化学や科学技術が、数量を使うのと、
似たような意味です。
数(すう)は、数字のような、文学の表現手段ですが、
コンピュータの2進法を、日常的な10進法の、
0と1の数字だけで、表示できるように、
すべての数は、完全に規則的な互換性があります。
10進法でも、2進法でも、同じ意味なの。
2進法って、
そうであるか、そうでないかを、判断するだけですから、
数は、マルペケ式ですが、判断って、全部そうです。
くっつけたり離したりして、事実を知ることを、
認識と言いますが、
自動機械のように、無意識に判断されます。
意識的に判断すれば、たぶん、論理と言われます。
エステティックな判断って、
ほとんどは、哺乳類の感情のように、
動物的に無意識ですが、
一部は意識的ですから、論理的です。
人間や動物の意識って、どうせ自動機械なのに、
どうして、論理的な判断は、
自動機械と別であるって、言われるのかしら。
人間の感情は、哺乳類の内の、
人間に近いほうの半分ぐらいの種類と、
まったく同じです。
人間の知性って、感情の下請けをしていますから、
どうせ、動物のあほと、同じなのに…
そういうふうに、一つのことを、幾つもに分割して、
細かく分類して行くことを、
くっつけたり離したりして、事実や論理を知る、
と言います。
人間と動物は同じなのに、違うと、言い出します。
論理って、くっつけたり離したりする時の、
癖(くせ)や習慣ですから、
顕微鏡のレンズや足し算のように、
物理化学や数学は、事実を演繹(えんえき)します。
人によって、くっつけたり離したりする時の、
癖(くせ)が違っていても、、
みんなと違う論理を使えば、支離滅裂と言われますから、
くそったれです。
妄想や幻覚や支離滅裂って、
統合失調症の症状を、文学的に表現するときに、
よく使われますけれど、屁理屈も、支離滅裂なのかしら。
人格障害の人って、屁理屈が、お上手(じょうず)ですけれど、
統合失調症の症状に、変化し易(やす)いと、言われています。
将来に統合失調症にならないって、予言しても当たらないくせに、
人格障害って、診断する人もいます。
みんなの価値観に合わせないと、統合失調症になりますけれど、
もっと症状が軽ければ、精神病院でなく、
牢屋のほうに入れられて、首吊りにされて、
みんなに殺されるかも知れません。
精神病院のほうが、良いのでないかと、
文句を言う人もいますけれど、
統合失調症になると、抗精神病薬を飲まされて、
強制的にあほにされます。
昔は、ロボトミーのように、脳味噌を切られましたから、
二度と回復しませんでしたけれど、
今の抗精神病薬も、似たようなものです。
GID(性同一性障害)でも、性腺を切除しないで、
性ホルモン剤を使えば、生殖機能を破壊できます。
牢屋に閉じ込めて、無理やりに殺すのと、
精神病院に放り込んで、無理やりに抗精神病薬を飲ますのと、
どちらが良いのかしら。
統合失調症やGID(性同一性障害)って、病識がありませんから、
何者かに唆(そその)かされて、悪い奴をやっつけようとする人や、
自分から喜んで、性転換をする人などが、たくさんいます。
唆(そその)かされるのも、強制されるも、喜んでするのも、
似たようなものなのにって、言うと、
フランス革命の好きな法律家に、怒られます。
パンチラは自由で、手鏡の先生は牢屋のように、
自殺は自由で、殺人は首吊り刑らしいの。
自殺も殺人も、似たような病気と思うけど…
お薬の依存症にならなければ、抗精神病薬って、効きません。
お薬を飲まなければ、苦しくなり、無茶苦茶になりますから、
自分で、ちゃんとお薬を飲めるようになるまで、
強制的に閉じ込めてから、退院して通院して貰います。
抗精神病薬って、実行力と思考力を、無理やりに低下させます。
思考は、みんなと一緒に合わせるには、どうしたら良いかって、
狡(ずる)い判断を、要領良く弾(はじ)き出しますから、
足し算や算盤(そろばん)やコンピュータや分類と、同じです。
弁証法的なの。
計算と実行の司令をやっているのは、脳の中の神経ですけれど、
ドーパミンっていう化学物質と、
くっついたり離れたりする種類です。
ドーパミンとくっつかなければ、情報が伝わりません。
神経の表面に、くっつく場所があり、
抗精神病薬が嵌(はま)り込むと、
ドーパミンと神経が、くっつかなくなり、
思考や実行が阻害されて、あほになり、悪さもしなくなります。
お薬屋さんは、お薬を売って儲けるために、
統合失調症は、神経にドーパミンが、たくさんくっつき過ぎるから、
病気になると言いました。
だから、くっつくのを邪魔する抗精神病薬を飲ませれば、
治るって言うの。
あほになって、実行できなくなれば、
悪さをしなくなるのは、当たり前です。
何が悪いことで、何が良いことかって、
そんなのは、人間社会の、文化的な価値観ですから、
抗精神病薬という化学物質の、知ったことでありません。
脳味噌も、電線と化学物質のあほですから、
知っているわけがありません。
ほんとは、抗精神病薬って、
患者さんの脳味噌がやっていることを、
真似(まね)しているの。
統合失調症の患者さんは、
悪いことをしてはいけないとか、
他人を恨んではいけないとかって、
一生懸命に、善良なことを考えて、自制します。
悪さをしたくなるのを、我慢しています。
外から、文化という刺激を、
餌(えさ)みたいに、与えられたからです。
神経の機能を、一生懸命、抑制しています。
文化的な価値が、脳味噌を機能させています。
個人って、脳味噌と体だけで動く自動機械でなく、
外からの刺激がないと、反応しません。
気持ちの良いほうに、反応するだけでしたら、
変形菌やプラナリアと、たいして変わりませんけれど、
文化に反応するって、結構な家畜のような仕掛けです。
変なことをしないように、意識的に自制するから、
脳の神経に、たくさんのドーパミンがくっついても、
電気が流れなくなります。
思考や実行をしないでは、生きて行けませんので、
もっとたくさんのドーパミンがくっつくと、
たぶん、無意識の自動機械の調節機能が、壊れます。
意識的に壊したのですから、自業自得のようですけれど、
文化の道徳的な命令なのに、
個人の心のせいと言われれば、
脳味噌は、立つ瀬がありません。
個体の脳味噌が、インチキなのでなく、
文化のほうが、人間の個体を、一律に扱うから、
あほですけれど、
GID(性同一性障害)の人たちは、そのことを、
社会の理解があれば、精神障害でないと、言います。
体に、実行を司令しているのは、大脳辺縁系ですから、
抗精神病薬を飲むと、悪さをしなくなりますけれど、
良いこともしなくなります。
変(へん)なことを考えているのは、前頭葉ですので、
抗精神病薬を飲むと、
しょうもないことを考えなくなりますけれど、
良いことも考えなくなります。
統合失調症の人が、
自分から、神経の機能を抑制しようとするのは、
人を恨んだり、悪いことをしたりしてはいけないって、
文化が思っているからなの。
人を怨まずに、良いことをする方法なんて、ありません。
日本国憲法に、
言うことを聞かん奴を、捕獲して、首吊りにしろって、
書いてあるもん。
良いことや悪いことなんか、ただの価値観ですから、
服装やお化粧の趣味みたいなもので、
屁(へ)の突っ張りにもなりませんって言うと、
怒られます。
お医者によっては、
お母さんの教育が二股膏薬でしたので、
統合失調症の患者さんの脳味噌が、迷ったと、言います。
お母さんだけでなく、
文化は、嘘つきの悪い奴に、決まっていますから、
お医者さんが治療をすれば、
余計に悪くなるかも知れません。
抗精神病薬は、
統合失調症の患者さんの病気と、同じことをします。
患者さんは、幼児のころから、
ずーっと、自分の価値観を自制して、辛坊して来ました。
みんなと一緒になれなかったの。
たいていは、体や境遇が、原因ですけれど…
最初は、上手(うま)く行っていましたが、
10年とか20年とか、長期間、自制をしていると、
脳の機能の限界を超えます。
統合失調症を発病しましたら、
今度は、抗精神病薬が、強制的にやってくれます。
患者さんのやったことと、同じ手順です。
わりと長期間、効き続けますけれど、
やっぱり、脳の機能の限界を超えると、効かなくなり、
いわゆる廃人になります。
自分の価値観を、自制することも、変更することも、
出来なくなります。
GID(性同一性障害)も、
性転換を望み、実行しようとする気持ちを、
自制できなくなり、変更不能になると、
受診して、GIDと診断されます。
治療法が、性転換ですから、
統合失調症の抗精神病薬と、同じ理屈です。
駄々をこねる子供に、
飴玉をしゃぶらせて、黙らせますけれど、
虫歯になります。
なんで、駄々をこねるのかしらと言っても、
子供は、しつこく泣き叫びます。
生まれつきの素質と境遇が揃うと、
そうなると言われますけれど、
精神病院の患者さんと、牢屋の常習犯が、
似たようなものでしたら、
お医者さんや総理大臣も、
飴玉をしゃぶっている親分にすぎません。
精神科の患者さんとお医者さんって、
牢屋のやくざと看守に、そっくりでしょう?
0コメント