アカマツ 1177 相互関係のさわり

道端の赤松(あかまつ)が奇麗に咲いていました。
旬(しゅん)の木が、いちばん生き生きとしています。
 
 
  
オウムの人たちは、独特の考え方を実行しましたけれど、
仏教では、わりと普通でした。
法律違反の実行が、既成宗教には珍しかったものの、
最近の新興宗教の中では、わりとたくさんの支持を得ていました。
 
現在の宗教も、昔は、オウムに似た人殺しが普通でしたので、
現代の人並(ひとな)みの信仰心は、
蛻(もぬけ)の殻を、のんべんだらりと崇めているようなもので、
エステティックや物理化学などに、
みんなと一緒にしがみついているのと、たいして変わりません。
 
医療や医学は、体の病気という概念を奉じるだけでも、
驚異的ですが、
精神科は、心にも病気があると言い、
独特の考え方を実行しますから、オウムと、さして変わりません。
現代の常識感覚では、普通ですので、
オウムよりも、みんなの支持を得ています。
 
痛いとか、苦しいとかって、
精神や体の、病気や障害のある人だけでなく、
死んで行く人や、赤ちゃんや、眠っている人などを見れば、
簡単にわかるように、
みんなと同じことのできない人たちの、わりと日常的な習慣です。
 
人間の生活って、他の生物と同じように、よく体を使いますので、
みんなと一緒のことが出来なくなると、
体の痛みや苦しみを、感じます。
長く続くと、たいていは感じなくなり、元気がなくなり、
他の動物と同じように、あほになり、
自動的に眠ったり死んだりします。
 
日が替わったり、世代交代をしたりすれば、
みんなの体の動かし方が、変わりますから、
体の痛みや苦しみって、疲労や老化と、たいして変わりません。
 
みんなと違うやつを間引いて殺すための、
みんなの文化的な運動や変化が、
日々の仕事や流行や世代交代や老化であると言っても、構いません。
 
もちろん、体の痛みや苦しみって、
体が、痛いとか苦しいとかを、感じるわけがない、と言えば、
感じるわけがありませんから、
普通は、心と言われるものが、体と別にあるかのように、
宗教的に信じます。
 
しょっちゅう変化する流行文化を見ていると、
常識って、少し長目に変化する流行にすぎませんので、
心と体が、別にあると、感じられなくなり、 
体が痛い、苦しいのは、心が感じるのでなく、
体が感じると思ったほうが、合理的であると、確信されます。
 
人生は苦であると、お釈迦さんは言い、
魂は肉体の牢獄であると、プラトンは言いました。
心が、肉体という牢獄の中に、閉じ込められているのでなく、
牢獄と言われる肉体の、材質が心である、と思ったほうが、
わかりやすいかも知れません。
 
うちの患者さんたちの言うには、
お釈迦さんは性分化疾患でして、
性欲が無いので、みんなと一緒のことができませんでした。
いかにして、性欲が無くても、みんなと一緒に生きて行けるかって、
一生、考え続けた人であるそうです。
 
性分化疾患なら、性欲が無いのかしら。
それって、精神障害かも知れませんけれど、
昔は、性分化の異常をきたす病気のせいで、
たくさんの人が死にましたので、
体が痛く、苦しかったのかも知れません。
 
生まれつきですと、
痛みや苦しみを、自覚できないのが、普通ですので、
生まれつきの体の障害や病気って、
みんなと一緒の体の動かし方の出来ないことを、
わざわざ精神障害と言い、
その素質が、体にあると、言ったりします。
 
すごく遠回りです。
まるで、単細胞の生物のやっていることを、
人間が真似(まね)をしているのと、よく似ています。
 
夏目漱石さんや、山下清さんのように、
乳幼児の頃に、体の病気に罹った人も、
よく精神の病気になりますので、
甘やかされて育てられたと、非難されるのが、普通です。
本人には、自覚されません。
 
社会は、みんなと違うやつを間引いて、殺しますので、
他人を笑って非難するのは、殺すぞ、という威嚇や脅迫です。
総理大臣や政治家を非難するのも、
だいたいは、人殺しと似たような気持ちです。
 
戦争に勝っても、敵を皆殺しにするのは、もったいない、と思えば、
奴隷にして、こき使います。
総理大臣や政治家を殺さずに、こき使いたければ、非難します。
アメリカ合衆国が、日本人を殺さずに、奴隷にしたのと、
似たようなものです。
 
中国や韓国朝鮮の人たちは、
お裾分けに与(あずか)れなかったので、
憤懣やる方ない気持ちが、今も続いています。
 
     心は、目で見て、手で触って、
     直接に知ることのできる事実に、見えませんので、
     だれにでも不思議です。
 
     目は目を見て、手は手を触り、鼻は鼻を嗅げるのに、
     耳は耳を聞くことができないように、
     心は心しか、知ることができませんので、
     感覚器官としての性能が、著しく低く、
     驚異的に遠回りな気持ちが、無数の神々を産むように、
     たくさんの宗教を信仰しているのかも知れません。
 
     生殖をして、兵力を増やすの。
     原爆が落ちる前に、神国日本って、言っていたのと
     同じです。
     生殖をして、味方を殖やして、
     嫌(いや)なやつを殺す気持ちは、
     宗教のように、凶暴です。
     
     自分で、残虐なことをやって置きながら、
     心の安らぎを求めるって、
     不良品の赤ちゃんが生まれたら、
     首を捻(ね)じて、ひと思いに殺してから、
     水子を供養するようなものです。
 
     エステティックは、目で見て、手で触って、
     直接に知ることのできる形として、
     物体や生物が見えるのは、不思議であると、言います。
     精霊崇拝や呪術の類です。
 
     物理化学は、不思議な物事(ものごと)を、
     粒々(つぶつぶ)主義により、解釈します。
     原因と結果の、自分という気持ちの物語のような、
     時間の関係を廃して、いわゆる相互関係で行きますから、
     弁証法と言われる論理中心主義になります。
 
     統合失調症の症状のように、
     問答や対話により、妄想をエスカレートさせて、
     予算を獲得します。
     妄想や幻覚って、聞いているだけですと、
     とても面白いように、
     物理化学の解釈は、漫才や漫談のように魅力的です。
 
     どうして、物理化学の予想や定義の通りに、
     こうなれば、必ずこうなり、
     原因と結果の関係が成り立つのかって、
     当たり前なのに、
     体と心の関係のように、なかなかわかりません。
 
     日本人って、論理中心主義を嫌いますから、
     特にそうです。
     相互関係が、日本人には、わかりません。
 
     お釈迦さんって、少なくとも文化的には、
     インドヨーロッパ系の人ですから、
     プラトンやアリストテレスなどと、
     よく似た考え方をします。
     日本人が、なぞろうとすると、
     オウムのお医者さんみたいに、
     サリンになってしまいます。
 
     自分という気持ちを排除して、物や、物と物の関係を、
     論理と言われる遣(や)り繰(く)りで行くと、
     因果関係は成り立たずに、相互関係が残ります。
     こっちのほうが、合理的ですけれど、
     物語になりませんから、文学が売れません。
 
     マスコミや政治や漫才や漫画やスポーツの人たちが、
     失業しますので、儲かりません。
     上杉謙信やロベスピエールやプーチンが出て来ないと、
     面白くないもんね。
     予算を分捕れません。
 
     科学技術が役に立つのは、事実ですし、
     物理化学の言う通りに、物事が起こりますから、
     宇宙船が飛び、超高層ビルが建ち、
     コンピュータが、お薬屋さんや看護師さんを製造して、
     DNAの紐が、お医者さんの首を絞めます。
 
     物が、目や手に、見えたり触れたりするのは、
     物と物の関係を、そのようにくっつけますから、
     相互関係よりも、世俗的な流行の尻馬に乗って、
     因果関係という文学を吹聴したほうが、
     人生や世の中が、面白くなるのに、決まっています。
 
     技術の実証って、物理化学の弁証法的な相互関係よりも、
     宗教や法律などの、
     ロマンティックな因果関係で行きます。
     認識や事実のように、物と物をくっつける作業が、
     そもそも、物語の製造ですから、仕方ありません。
 
     コンピュータの、
     ハードウェアやソフトウェアと言われるプログラムは、
     流行の物語を作るように、設計編集されています。
     
     時間って物語ですから、数学や論理学の考え方では、
     コンピュータや乗り物やお薬などの、科学技術は、
     生物の体の、認識や事実やコミュニケーションなどの
     仕組みと同じように、
     文学及び宗教製造機械に見えます。
     
     エジプトのピラミッドを作った技術なんか、
     物理化学よりも、うんと古く、
     お薬屋さんって、物理化学よりも、
     レッテル貼りの宗教家に、判断の仕方がよく似ています。
      
     みんなの事実が一致するのは、もちろん、
     ハードウェアやソフトウェアの、同じプログラムを、
     みんなが使っているからですけれど、
     眠っている時は、
     みんなと同じソフトウェアを使いませんから、
     目覚めていなければ、みんなと同じ夢を見れません。
     
     みんなと同じ夢を、みんなの事実と言い、
     自分だけの事実を、夢や妄想や幻覚などと、言います。
     みんなと一緒の夢を見れなくなると、
     しんどいと感じて眠り、自分だけの夢を見ます。
 
     眠らずに、目覚めているのに、
     みんなと一緒のことをしないで、
     自分だけの夢を見ますと、妄想や幻覚と言われます。
     みんなと一緒のことができないので、
     体がしんどいとか、痛いとか苦しいとかと、感じるのと、
     自分だけの夢や、妄想や幻覚を見るとのは、同じです。
     
     他人が、
     個人的な夢や、妄想や幻覚などと、解釈するのと、
     本人の、
     体がしんどい、痛い、苦しいと、自覚するのとが、
     一致すれば、
     因果関係のように、文学的に、わかりやすいのですが、
     一致していなければ、
     相互関係のように、論理中心主義の弁証法で行きます。
 
     統合失調症の患者さんは、問答や対話をするように、
     よく独(ひと)り言(ごと)を、言います。
     みんなと一緒のことが、できない体になり、
     孤立して引きこもったり、虐(いじ)められたりすると、
     弁証法になります。
     
     そうでなければ、
     因果関係が、物語のように、はっきりしますので、
     たぶん、体の病気として、処理されます。
     死ぬときは、みんなそうです。
 
     相互関係って、男と女の関係みたい、と言えば、
     良いかしら。
     子供の原因は、父親であるし、母親でありますけれど、
     父親と母親の関係は、たぶん因果関係でなく、
     相互関係です。
 
     時間の前後関係という原因と結果の物語は、
     一本の同じ時間の上にしか、乗せられませんので、
     時間の前後関係の軸が異なるのと、
     因果関係を設定できないのとは、同じ意味です。
 
     物事の組み合わせの変化は、時間が必要ですけれど、
     時間って、不可逆的に推移しますので、
     時間の前のほうから、後ろのほうへ、一方通行です。
 
     物事(ものごと)を、概念のような粒々(つぶつぶ)と、
     その組み合わせとして理解しなければ、
     論理は成り立ちませんけれど、
     時間がなければ、変化も運動もなく、
     一方通行の関係も、ありませんから、
     因果関係を除けば、粒々の組み合わせの関係は、
     すべて相互関係です。
 
     昔の実存主義と言われる考え方では、
     一回きりの、自分一人だけの経験が、大切にされました。
     宗教の言うところの、
     奇跡や、神様との遭遇に、似ています。
     自然の驚異も、その一種かしら。
  
     一回きりの、自分一人だけの出来事って、
     本人には、意味がわかりませんけれど、
     普通は、意味のわからないものが、
     見えたり聞こえたり触れたりは、しません。
     感じられません。
     
     共通項で括(くく)ることと、
     知覚や自覚によって、意味を持つこととは、同じなの。
 
     いつものことですと、習慣になっていますから、
     自覚されません。 
     心臓や内臓が動き、白血球が、敵味方を識別して、
     ばい菌をやっつけるのも、
     習慣になっているから、一々、自覚されないだけです。
 
     さもなければ、神経がつながっていませんから、
     情報の伝達が、遅れているのか、
     あるいは、ずーっと永遠に伝達されないのか、
     体の部分のほうが、
     江戸時代の大名の自治みたいに、勝手にやっているのか、
     寄生虫や微生物やウイルスなどが、
     人間の体の中で、勝手に生きているのか…
 
     新しいことに、初めて気づく時って、
     他人が気づいていたのに、
     自分が遅れて気づいたのでなければ、
     一回きりの自分一人だけの出来事のように、
     感じられるのかしら。
 
     そんなことはないと、プラトンは考えました。
     人間って、思い出すことしか、できません。
     すでに知っていることしか、知ることができないと、
     言います。
 
     人生の途中から、ハードウェアやソフトウェアが、
     増設されたり、インストールされたりするのも、
     すでに知っていることとします。
     コミュニケーションによって、知ることです。
 
     ハードウェアやソフトウェアと言われるプログラムに、
     認識されないデータが、
     入力されることは、絶対にありません。
     コンピュータが壊れていなければ、
     認識されるのと入力されるのは、同じだもん。
 
     たとえ、認識されるデータであったとしても、
     コンピュータの中で、
     共通項を括られるように、分類されて、
     あちこちに移動させられて、
     あれこれと組み合わされて、
     記憶されたり、出力されたりするだけです。
 
     データの真偽って、
     コンピュータは、単に所定の分類をして、
     真や偽などの、さまざまな名前の、
     識別のためのレッテルを貼るだけなの。
 
     データそのものが、嘘っぱちであっても、
     規格や定義に一致していれば、
     コンピュータには、どうしようもできません。
 
     役所に提出する文書って、体裁や内容や計算式などが、
     所定の規格であれば、自動的に裁可されますけれど、
     データの数字が、嘘八百かも知れませんので、
     下請けの業者に発注して、検分します。
 
     役所の人や業者を、接待するのが、慣例ですけれど、
     検分って、現場に行き、実地に確かめて、
     役所の書類に、ハンコを押すだけですから、
     業者の接待を受ける仕事です。
 
     学者さんの論文も、そうですけれど、
     規格に合っていれば、データの嘘は、つき放題なの。
 
     そんなの、大昔から世界中、当たり前ですから、
     精神科って、みんなの規格と一緒のデータを、
     適当に製造するだけです。
     みんなの規格に合うように、書きますけれど、
     適当って、嘘八百と同じ意味なの。
 
     患者さんを忘れないように、先々週は、何をしたかって、
     ちゃんと書いて置いて、おしまい。
     レシピの通りと、嘘八百とは、同じ意味であるって、
     笹子トンネルのケミカルアンカーを打ち込んだ業者も、
     自分では気づきません。
 
     所定通りにやっているだけですから、
     何も恥ずかしくはありません。
     気づいていなければ、嘘と言えませんから、どうしよう?
 
     気づかないように生きるのが、賢いかも知れません。
     誰にも、嘘を、気づかれないのと、同じ意味ですから、
     賢く生きたければ、自分で気づかないように生きるに、
     如(し)くはありません。
 
     みんなと違うデータって、
     嘘でなければ、認識されません。
     嘘か本当かって、みんなと一緒の規格や定義などと、
     同じか違うかによって、決まりますから、当たり前です。
 
     何かの物事(ものごと)を、
     それであると、特定して認識することが、
     そもそも、価値なの。
     
     たとえば、知能は、
     何を賢いとするかって、そんなもん、人の勝手ですから、
     みんなが、何を賢いとしているかを、測るしか、
     仕方ありません。
     たくさんの人が賢いとすることに、一致していれば、
     知能が高いとされます。
 
     知能検査って、
     漫才やお化粧や政治家などの、人気投票と同じですから、
     民主的です。
 
     目で見て、手で触って、耳で聞く知覚が、
     エステティックや物理化学や宗教などのように、
     民主的なの。
     夢や赤ちゃんや死にかけの年寄りでなければ、
     みんなと違う価値や知覚は、
     妄想や幻覚や支離滅裂などと言われて、
     牢屋や精神病院に、ぶち込まれます。
 
     ギロチンや、ロボトミーなどに比べれば、
     抗精神病薬や性転換って、平和的ですけれど、
     結果は同じです。
 
     
 
  
  
  

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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