小楢(こなら)の雄花(おばな)の、
尾状花序(びじょうかじょ)です。
小枝(こえだ)の先(さき)の葉腋(ようえき)から、
短(みじか)い軸(じく)の雌花序(しかじょ)も出(で)て、
数個(すうこ)の雌花(めばな)が咲(さ)いていますが、
小(ちい)さくて、ほとんど見(み)えません。
写真(しゃしん)をクリックすると、大(おお)きくなります。
その写真(しゃしん)の下(した)の、
オリジナルサイズを表示(ひょうじ)、というのをクリックすると、
さらに大(おお)きくなり、
雌花(めばな)を確認(かくにん)できます。
雌花(めばな)って、どんぐりに成(な)る花(はな)ですけれど、
今(いま)は、雄花序(ゆうかじょ)のほうが奇麗(きれい)です。
櫟(くぬぎ)の雄花序(ゆうかじょ)に、そっくりですけれど、
葉(は)を見(み)れば、すぐにわかります。
櫟(くぬぎ)は、鋸歯(きょし)の先端(せんたん)が、
はっきりと針(はり)になっています。
小楢(こなら)は、
葉(は)のぎざぎざの先(さき)が、尖(とが)っているだけです。
鋸歯(きょし)を無視(むし)した葉(は)の形(かたち)が、
小楢(こなら)は、卵形(らんけい)でなく、
倒卵形(とうらんけい)です。
落葉樹(らくようじゅ)の小楢(こなら)の、
葉(は)の形(かたち)や雄花序(ゆうかじょ)は、
常緑樹(じょうりょくじゅ)の粗樫(アラカシ)に
似(に)ています。
粗樫(あらかし)の樹皮(じゅひ)は、ざらざらですが、
割(わ)れません。
小楢(こなら)や櫟(くぬぎ)の樹皮(じゅひ)は、
罅割(ひびわ)れだらけです。
櫟(くぬぎ)の炭(すみ)は、
樹皮(じゅひ)の罅割(ひびわ)れが、
そのまま残(のこ)りますので、よく火(ひ)がつきました。
備長炭(びんちょうたん)は、樹皮(じゅひ)を焼(や)き、
窯(かま)を高温(こうおん)にしますので、
でこぼこの樹皮(じゅひ)の姥目樫(うばめがし)も、
表面(ひょうめん)の滑(なめ)らかな炭(すみ)になるそうです。
わたしは、備長炭(びんちょうたん)よりも、
罅割(ひびわ)れだらけの、櫟(くぬぎ)の炭(すみ)を
よく使(つか)いました。
備長炭(びんちょうたん)は、
硬(かた)く緻密(ちみつ)ですので、破裂(はれつ)しやすく、
家庭用(かていよう)の燃料(ねんりょう)になりません。
茶道(さどう)のお湯(ゆ)を沸(わ)かす炭(すみ)も、
罅(ひび)だらけの櫟(くぬぎ)です。
菊炭(きくずみ)と言(い)いますが、
今(いま)でも、茶道(さどう)は、
和室(わしつ)に囲炉裏(いろり)を切(き)りますので、
炭(すみ)が弾(はじ)けたのでは、火事(かじ)になります。
断面(だんめん)が菊(きく)の模様(もよう)のように、
罅割(ひびわ)れだらけですと、
彈(はじ)けても安心(あんしん)です。
わたしの若(わか)い頃(ころ)は、
都会(とかい)の、どの家庭(かてい)でも、
火鉢(ひばち)を使(つか)っていました。
罅(ひび)のない緻密(ちみつ)な備長炭(びんちょうたん)は、
危(あぶ)なくて使(つか)えませんでした。
ブナ科(か)の樫(かし)の、備長炭(びんちょうたん)でなく、
ブナ科(か)の櫟(くぬぎ)の、菊炭(きくずみ)を
使(つか)いました。
西日本(にしにほん)では、
櫟(くぬぎ)や小楢(こなら)が、
薪炭材(しんたんざい)でしたが、
東北地方(とうほくちほう)や北海道(ほっかいどう)では、
ブナ科(か)の、山毛欅(ぶな)や水楢(みずなら)や、
カバノキ科(か)の、水目(みずめ)や熊四手(くましで)などを、
よく使いました。
戦後(せんご)は、
火持(ひも)ちの良(よ)いアカシアやニセアカシアを、
たくさん植林(しょくりん)しました。
インダス川(がわ)や
チグリス・ユーフラテス川(がわ)や黄河(こうが)などの
大河川流域(だいかせんりゅういき)の
古代文明(こだいぶんめい)は、
薪(まき)を切(き)り、禿山(はげやま)になると、
都市(とし)が滅(ほろ)びたのでないかと、
言(い)われています。
テヘランも、裏山(うらやま)に、雪(ゆき)が積(つ)もるのに、
禿山(はげやま)です。
雪解(ゆきど)け水(みず)を、
地表(ちひょう)に流(なが)しません。
カレーズと言(い)われる地下水路(ちかすいろ)に
流(なが)して、
飲料水(いんりょうすい)を確保(かくほ)します。
5610mのダマバンド山(さん)の続(つづ)きの、
エルブルース山脈(さんみゃく)です。
テヘランから、ほんの100kmほど、北(きた)に行(い)くと、
山脈(さんみゃく)を越(こ)えて、
カスピ海(かい)の南岸(なんがん)に出(で)ます。
そこは、日本(にほん)のように、雨(あめ)が降(ふ)り、
人々(ひとびと)は、お米(こめ)を栽培(さいばい)しています。
それなのに、イランの人(ひと)は、
エルブルース山脈(さんみゃく)の南(みなみ)の、
禿山(はげやま)ばかりの、テヘランに暮(く)らしています。
テヘランは、白人(はくじん)のペルシャ人の町(まち)です。
山(やま)の北(きた)の、カスピ海(かい)南岸(なんがん)の
マーザンダラーン州(しゅう)やギーラーン州(しゅう)の
住人(じゅうにん)を、ギーラキやギリヤークと言(い)いますが、
ペルシャ語(ご)の方言(ほうげん)を話(はな)します。
極東(きょくとう)の、
アムール川(がわ)河口(かこう)から樺太(からふと)あたりの、
少数民族(しょうすうみんぞく)も、
ギリヤークと呼(よ)ばれています。
第二次世界大戦後(だいにじせかいたいせんご)に、
樺太(からふと)の人(ひと)たちが
北海道(ほっかいどう)に移住(いじゅう)しましたので、
日本(にほん)にも、ギリヤークが暮(く)らしていましたが、
カスピ海(かい)沿岸(えんがん)の人(ひと)たちとは、
無関係(むかんけい)です。
カスピ海(かい)って、
池(いけ)ですから、汚(よご)れが溜(た)まります。
昔(むかし)は、お塩(しお)ばかりが、溜(た)まりましたので、
塩水(しおみず)になりました。
太平洋(たいへいよう)も、水溜(みずた)まりなので、
塩水(しおみず)になりました。
出口(でぐち)のない糞詰(ふんづ)まりです。
大河川(だいかせん)でも、
浸食(しんしょく)が深(ふか)ければ、
水(みず)を上(あ)げられなくなり、
川(かわ)の傍(そば)なのに、
遥(はる)か上流(じょうりゅう)から、
水(みず)を引(ひ)かねばなりません。
下流(かりゅう)では、天井川(てんじょうがわ)になりますので、
堤防(ていぼう)を作(つく)らなければいけません。
治山治水(ちさんちすい)には、
大(おお)きな権力(けんりょく)が必要(ひつよう)です。
多民族社会(たみんぞくしゃかい)では、
たくさんの異民族(いみんぞく)を、殺(ころ)しました。
生殖機能(せいしょくきのう)だけを壊(こわ)して、
奴隷(どれい)をこき使(つか)うのは、
短期的(たんきてき)には、合理的(ごうりてき)です。
計画的(けいかくてき)に繁殖(はんしょく)をさせて、
長期的(ちょうきてき)に飼育(しいく)をしなければ、
一時凌(いちじしの)ぎにしか、なりません。
性転換医療(せいてんかんいりょう)は、
殺(ころ)し合(あ)いよりも、
高等(こうとう)な奴隷(どれい)の管理法(かんりほう)ですが、
継続的(けいぞくてき)な飼育(しいく)の工夫(くふう)に、
欠(か)けています。
お爺(じい)さんは、山(やま)に柴刈(しばか)りに、
お婆(ばあ)さんは、
川(かわ)に洗濯(せんたく)に行(い)きました。
昔(むかし)は、薪(まき)を作(つく)るために、
男(おとこ)は
一日(いちにち)の大半(たいはん)を費(つい)やしました。
女(おんな)は洗濯(せんたく)のために、
物凄(ものすご)くしんどい目(め)に遭(あ)わされました。
合成洗剤(ごうせいせんざい)ができて、
電気洗濯機(でんきせんたくき)を買(か)うと、
女(おんな)の生活(せいかつ)が、一変(いっぺん)しました。
昔(むかし)は、
赤(あか)ちゃんのお襁褓(おむつ)を、洗(あら)うだけで、
毎日毎日(まいにちまいにち)、年(とし)を取(と)りました。
薪(まき)も、そうなの。
自然(しぜん)に育(そだ)つ木(き)では、
すぐに禿山(はげやま)になります。
町(まち)には、
木(き)が、一本(いっぽん)も生(は)えていませんから、
周囲(しゅうい)の山(やま)が、
供給(きょうきゅう)しなければなりません。
炊事(すいじ)のために、
毎日(まいにち)、薪(まき)が必要(ひつよう)でした。
北日本(きたにほん)の冬(ふゆ)は、
眠(ねむ)っている間(あいだ)にも、
暖房(だんぼう)がなければ、死(し)んでしまいます。
里山(さとやま)は、
薪炭材料(しんたんざいりょう)を
計画的(けいかくてき)に管理(かんり)しました。
薪(まき)や炭(すみ)に、
持(も)って来(こ)いの樹木(じゅもく)を、
優先(ゆうせん)して植(う)えました。
木(き)を見(み)て、薪(まき)や炭(すみ)を思(おも)い、
木(き)の取(と)り合(あ)いのために、
殺(ころ)し合(あ)いをするのが、
男(おとこ)たちの仕事(しごと)です。
殺(ころ)し合(あ)いが進化(しんか)して、
性転換(せいてんかん)になり、
奴隷制度(どれいせいど)が発達(はったつ)しました。
炭(すみ)って、日本人(にほんじん)の発明(はつめい)かしら。
日本文化(にほんぶんか)の特徴(とくちょう)が、
よく現(あら)われています。
植林(しょくりん)をして、歌舞伎(かぶき)を楽(たの)しみ、
子供(こども)や精神病(せいしんびょう)の人(ひと)を
処罰(しょばつ)しない社会(しゃかい)が、
日本(にほん)では、よく発達(はったつ)しました。
うちでは、薪(まき)や炭(すみ)の代(か)わりに、
石油(せきゆ)や石炭(せきたん)を掘(ほ)り、
殺(ころ)し合(あ)いのために、
鉄(てつ)を作(つく)りました。
ノーベルという人(ひと)は、
カスピ海(かい)の石油(せきゆ)を掘(ほ)り、
小(しょう)アジアの人(ひと)たちは、
鉄(てつ)を作(つく)りました。
ペルシャ人(じん)やトルコ人(じん)やロシア人(じん)たちは、
カスピ海(かい)や小(しょう)アジアを、征服(せいふく)して、
精神の障害や病気や、医療だけでなく、
人間社会や生物全体について、言えることと、
言わねばならぬことや、言うこととが、全然違うのは、
たぶん、生物が生きているのでしたら、当たり前です。
違う事(こと)を、そうであると納得するのは、
違いを一致させて、同じであると、思うことです。
人間は、そういうふうにしか、
物事(ものごと)を認識できないって、諦(あきら)めることを、
弁証法と言います。
当然、そういうふうにしか、実行できません。
違いを一致させるのは、
共通点を見つけて、同じであると、認識しますけれど、
実行では、物事(ものごと)を変形させて、同じにします。
変形させるのは、共通点を見つけるのと、同じ目的です。
ようするに、実行は、
心の中の出来事と、事実と言われる出来事とを、一致させるために、
事実のほうを変形させます。
算盤(そろばん)って、記憶力の良い人は、
心の中の算盤の玉を動かして、暗算をします。
記憶力の悪い人は、実際の算盤を使いますから、
事実って、心の中の出来事の、補助のようなものです。
暗算のための算盤を、心に思い浮かべるように、
架空の事実と言われる出来事を、
心の中に想定することを、文化と言います。
みんなと同じような出来事を想定しなければ、
空想や妄想や大嘘(おおうそ)などと、言われます。
みんなと同じでしたら、事実と言われます。
みんなと、品揃えを同じにするための、
共通のプログラムを、文化と言います。
脳の中に記憶するよりも、脳の外に記憶するほうが、
楽ちんですから、
人間が、事実を想定して、文化的に記憶するのは、
算盤(そろばん)やコンピュータのように、
当たり前です。
物事(ものごと)を暗記する時に、
現実の出来事になぞらえて暗記すると、
覚えやすく、忘れにくく、思い出しやすくなります。
無意味な数字の羅列を、記憶する時に、
何かに託(かこつ)けて覚えます。
単純なのは、語呂合わせですが、
それだけでは、円周率を何千桁も覚えられませんから、
面白そうな物語をこじつけます。
話の筋(すじ)があると、
アイヌのユーカラや、キリスト教の聖書なども、
簡単に丸覚えができます。
赤ちゃんは、言語を、そのようにして習得しました。
脳味噌の中は、
神経の電線が繋がり、化学物質が移動して、
粒々(つぶつぶ)が、
くっついたり離れたりしているだけです。
肝臓みたいに、意味の無い世界に決まっています。
電気や化学物質が、正義や真偽や美醜などの価値を、
知っているわけがありません。
わたしたちが、物事(ものごと)を認識するのは、
脳の中の、無意味な出来事に、
意味のある物語をこじつけているからです。
ストーリーをこじつけて、
粒々(つぶつぶ)の組み合わせを、記憶しています。
こじつけられた架空の物語のことを、
現実や事実などと言います。
宗教の盛んな頃には、聖書やお経の記述などが、
大切な物語でしたが、
今は、事実と言われる物事(ものごと)のほうが、
よく神棚に祀(まつ)られています。
認識の対象が、脳の外にあるかのように、
想定することにより、
脳の中の出来事を識別して、記憶します。
現実や事実って、認識の対象として、
そこに在るかのように、
想定された物事(ものごと)ですけれど、
わたしたちは、意味のない脳味噌の中の出来事に、
肝臓のように意味をつけて、脚色しています。
お料理を作って、食べるように、
物語を捏(でっ)ち上げて、記憶します。
お料理や物語などの文化が、
脳味噌を、美味(おい)しくしました。
膨大な量の、無意味な記憶に、
番地を付けて識別するのと、同じです。
似たような数字を羅列した2進法の番地よりも、
嘘つきの物語のほうが、
識別しやすく覚えやすいのに、決まっています。
脳味噌の中の、意味のない出来事は、
判断と言われますが、
弁証法という欧米の考え方は、マルペケ式の2進法です。
2進法の数は、10進法や、100進法や、
言語や物語などの表記に、簡単に翻訳されますから、
物語を作ったり、数量を数えたりするのは、
マルペケの判断を積み重ねるのと、同じです。
脳味噌の中の、判断と言われる化学物質や電気などの、
粒々(つぶつぶ)の移動や組み合わせを記憶するために、
わたしたちは、
現実や事実や物語や宗教の教義などと言われる算盤が
あるかのように、想定します。
暗算をするために、
頭の中の架空の算盤(そろばん)の玉を動かします。
たくさんの人の言う事実が、だいたい同じになるのは、
同じプログラムを使っているからです。
文化と言われます。
文化の具体的な中身は、
人や時代や場所などにより、異なるように、
枠組(わくぐ)みのプログラムは同じでも、
算盤(そろばん)の玉に現れた記憶の中身は、違います。
算盤という架空の玉を動かすことを、実行と言います。
他人の算盤の中身と、自分の算盤の中身を、
一致させるだけでなく、
脳の中の認識と、事実と言われる架空の算盤の中身を、
一致させます。
記憶の補助の、現実と言われる文化の中身は、
自分の心の中と、他人の心の中とを、
一致させる道具として、
脳の外側に、みんなに共通の記憶が、想定されますので、
文化の中身を作るために、実行することは、
コミュニケーションと言われます。
生物だけでなく、物体は、みんなと一緒でなければなりません。
宇宙は一つでなければいけないでしょう?
宇宙は、コミュニケーションのための、
みんなに共通の算盤(そろばん)ですから、
一つにならなければ、コミュニケーションに支障をきたします。
みんなで一致して、意気投合すると、ちりぢりに分かれますので、
ビッグバンと言われます。
心臓が動いたり、呼吸をしたりするようなものですけれど、
高校野球の子供たちも、
みんなで円陣を組んで、呼吸を合わせてから、
最終回の攻撃をするそうです。
物体は、生きていますから、
人間という物体も、生きているのに決まっています。
生物は物体から出来ているって、
中学校の教科書に書いてありました。
人間の精神も、そうです。
物体がコミュニケーションをすると、生きていると言われます。
心があるって意味ですけれど、
ウイルスの心と、コミュニケーションをするのは、
難しいかも知れません。
心が変更不能になると、コミュニケーションができませんから、
物体と言われます。
そういうレッテルを貼って、識別します。
物体は、他の何かと、共通であるなら、
生物の一部と言われるかも知れません。
価値は、共通性の有無を認識します。
共通であれば、
空間や時間や概念などに纏(まと)められて、事実と言われ、
価値の変更が可能になれば、生きていると言われます。
生命でない物体があると思っているように、人間はあほです。
宇宙や事実は、わたしたちの心の風景にすぎません。
物体は、粒々(つぶつぶ)で出来ていますから、
コミュニケーションの可能な組み合わせになれば、心が変化します。
物体は、物語りなの。
水が、高い方から低い方に流れるように、
みんなの心が一つになれば、
ビッグバンが起こり、エンジンが動きます。
一つのものが、木端微塵(こっぱみじん)に壊れて、
エネルギーが不均一になれば、
水が流れるように、コミュニケーションが起こり、命が生まれます。
人間の命が、子宮から生まれると思うのは、あほです。
男性の言うには、ビッグバンによって、生まれました。
ほんとは、物体の認識から生まれたのに…
粒々(つぶつぶ)の、特定の組み合わせが、命と言われるように、
価値が変わり、組み合わせが変われば、命が生まれます。
コミュニケーションは、殺し合いと同じように、
みんなで分かり合い、みんなと違う奴を殺して
類は友を呼ぶように、一つになります。
GID(性同一性障害)や統合失調症などの、精神の病気も、
体の障害や病気と、同じです。
粒々(つぶつぶ)って、平等ですから、
障害や病気は、健康と同じように変化します。
王様の首を、ギロチンで落として、血だらけの首を掲げるのと、
毎日毎日の、お肉の料理とは、似ています。
肝臓が賢くないのに、人間の脳味噌が賢いなんて、
絶対にありません。
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