東京都(とうきょうと)台東区(たいとうく)の、
谷中(やなか)って、
JR山手線(やまのてせん)日暮里駅(にっぽりえき)の、
西側(にしがわ)の町(まち)の名前(なまえ)です。
関東大震災(かんとうだいしんさい)や、
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)の、
火災(かさい)の被害(ひがい)が少なく、
明治以降(めいじいこう)の、古(ふる)い町並(まちな)みが、
残(のこ)っている、と言(い)われています。
武蔵野台地(むさしのだいち)の端(はし)っこの、
上野台(うえのだい)と言(い)われる土地(とち)ですが、
坂(さか)が多(おお)く、
昔(むかし)ながらの狭(せま)い道(みち)が、
くにゃくにゃしていますので、
再開発(さいかいはつ)が難(むずかし)しく、
住民(じゅうみん)が老化(ろうか)しているだけかも知れません。
日暮里駅(にっぽりえき)から、
西(にし)へ、300mほど歩(ある)くと、
昔(むかし)の谷田川(やたがわ)の
河川敷(かせんじき)へ降(お)りる階段(かいだん)があります。
現在(げんざい)の水流(すいりゅう)は、
地下(ちか)に埋設(まいせつ)されて、
暗渠(あんきょ)になっています。
下水道(げすいどう)に、落(お)ちぶれたの。
藍染川(あいぞめがわ)とも、言われたそうですが、
谷中銀座(やなかぎんざ)という商店街(しょうてんがい)が、
昔(むかし)の川床(かわどこ)です。
階段(かいだん)の上(うえ)は、
自然堤防(しぜんていぼう)の感(かん)じですが、
川(かわ)が、武蔵野台地(むさしのだいち)を
侵食(しんしょく)しました。
河口(かこう)に近(ちか)いので、
土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)したように見(み)えますが、
氷河時代(ひょうがじだい)は、海面(かいめん)が低(ひく)く、
河口(かこう)から離(はな)れた台地(だいち)を、
谷田川(やたがわ)が、削(けず)りました。
谷中(やなか)という谷(たに)は、溺(おぼ)れ谷(だに)なの。
気温(きおん)が上(あ)がり、
氷河期(ひょうがき)が終(お)わると、
氷(こおり)が解(と)けて、
海面(かいめん)が上昇(じょうしょう)しました。
海(うみ)が、陸地(りくち)の奥(おく)まで、
侵入(しんにゅう)しましたので、
JR山手線(やまのてせん)の、上野駅(うえのえき)から、
日暮里駅(にっぽりえき)を経(へ)て、
田端駅(たばたえき)に至(いた)るまでの、
線路(せんろ)の西側(にしがわ)の崖(がけ)が、
昔(むかし)の海食崖(かいしょくがい)と、
言(い)われています。
たぶん、嘘(うそ)ですけれど、
6000年前(ねんまえ)に、
海岸線(かいがんせん)であったことは、
間違(まちが)いありません。
線路(せんろ)は、傾斜地(けいしゃち)の地面(じめん)を、
水平(すいへい)に均(なら)してから、
敷設(ふせつ)しますので、
線路(せんろ)の西側(にしがわ)が、崖(がけ)になるのは、
当(あ)たり前(まえ)です。
この崖(がけ)が、
海食崖(かいしょくがい)というわけでは、ありません。
台地(だいち)の波打(なみう)ち際(ぎわ)の、
海食崖(かいしょくがい)の名残(なごり)の、
急傾斜地(きゅうけいしゃち)を、均(なら)して、
軌道(きどう)を敷設(ふせつ)しましたので、
線路(せんろ)の傍(はた)に、
垂直(すいちょく)の崖(がけ)が、再現(さいげん)されたのは、
当然(とうぜん)です。
海食崖(かいしょくがい)が出来(でき)た後(のち)に、
溺(おぼ)れ谷(だに)の河口(かこう)に、
土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)しましたので、
台地(だいち)の海食崖(かいしょくがい)の沖(おき)に、
沖積平野(ちゅうせきへいや)が、
付(つ)け加(くわ)わりました。
上野台(うえのだい)と言(い)われる所(ところ)は、
谷田川(やたがわ)の溺(おぼ)れ谷(だに)と、
海食崖(かいしょくがい)の間(あいだ)に、
取(と)り残(のこ)された武蔵野台地(むさしのだいち)の
端(はし)っこです。
上野公園(うえのこうえん)や
谷中霊園(やなかれいえん)などが、あります。
谷田川(やたがわ)の
谷筋(たにすじ)の名残(なごり)の土地(とち)には、
不忍池(しのばずのいけ)や、
不忍通(しのばずどお)りなどが、あります。
谷田川(やたがわ)の、
西隣(にしどなり)の谷筋(たにすじ)にも、
谷端川(やばたがわ)という川(かわ)が、
流(なが)れていました。
やはり、現在(げんざい)は、
白山通(はくさんどお)りの地下(ちか)の、
暗渠(あんきょ)の下水道(げすいどう)になっています。
谷端川(やばたがわ)は、
小石川(こいしかわ)とも、言(い)われました。
谷田川(やたがわ)と谷端川(やばたがわ)の間(あいだ)の
武蔵野台地(むさしのだいた)の尾根筋(おねすじ)を、
本郷台(ほんごうだい)と言(い)い、
現在(げんざい)の本郷通(ほんごうどお)りの一部(いちぶ)が、
昔(むかし)の中山道(なかせんどう)の名残(なご)りです。
本郷台(ほんごうだい)には、東京大学(とうきょうだいがく)や、
JR中央線(ちゅうおうせん)御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)の
南側(みなみがわ)の、ニコライ堂(どう)などが、あります。
神田川(かんだがわ)は、江戸時代に、
本郷台(ほんごうだい)の南北(なんぼく)の尾根(おね)を、
東西(とうざい)に切(き)り通(とお)しました。
日比谷入江(ひびやいりえ)に流(なが)れていたのを、
隅田川(すみだかわ)の河口(かこう)に流(なが)すためでした。
日比谷入江(ひびやいりえ)を埋(う)め立(た)てて、
現在(げんざい)の、皇居外苑(こうきょがいえん)や、
大手町(おおてまち)や、丸(まる)の内(うち)や、
有楽町(ゆうらくちょう)や、新橋(しんばし)などの、
埋立地(うめたてち)を作(つく)りました。
入江(いりえ)と言(い)っても、
平川(ひらかわ)と言(い)われた神田川(かんだがわ)の、
河口(かこう)が幅広(はばひろ)くなり、
川(かわ)なのか、海(うみ)なのか、
わからない喇叭型(らっぱがた)の浅瀬(あさせ)に、
河口(かこう)の堆積物(たいせきぶつ)の、
江戸前島(えどまえしま)と言(い)われた中洲(なかす)が、
武蔵野台地(むさしのだいち)の海岸線(かいがんせん)の、
東(ひがし)の沖合(おきあい)に、
北(きた)から垂(た)れ下(さ)がり、
ちんちんのように延(の)びて、
半島(はんとう)になっていました。
その間(あいだ)の海(うみ)を、
江戸時代(えどじだい)の人(ひと)は、
日比谷入江(ひびやいりえ)と言(い)いましたが、
平川(ひらかわ)の河口(かこう)の
干潟(ひがた)と言(い)っても、
別(べつ)に構(かま)いません。
わたしは、学生時代(がくせいじだい)に、
チャリンコの運転(うんてん)が、得意(とくい)でしたので、
運動量(うんどうりょう)と到達時間(とうたつじかん)から、
最適(さいてき)の進路(しんろ)を選択(せんたく)するために、
東京(とうきょう)の地形(ちけい)を、
調(しら)べ上(あ)げました。
今(いま)でも、覚(おぼ)えています。
自動車(じどうしゃ)や、坂(さか)や、橋(はし)の、
少(すく)ない道(みち)が、楽(らく)ちんでした。
江戸時代(えどじだい)の土木工事(どぼくこうじ)は、
洪水(こうずい)の予防(よぼう)と、
湿地(しっち)の排水(はいすい)が、目的(もくてき)でしたが、
飲料水(いんりょうすい)の供給(きょうきゅう)と、
水運(すいうん)の確保(かくほ)と、
耕作地(こうさくち)の開発(かいはつ)を、
兼(か)ねていました。
お城(しろ)の防御(ぼうぎょ)も、あったかも知(し)れません。
なんで、こんなところに、川(かわ)を掘(ほ)ったのかしらと、
文句(もんく)を言(い)いながら、
チャリンコを漕(こ)ぎました。
なんで、法律(ほうりつ)を作(つく)り、
あほや気違(きちが)いを間引(まび)くために、
性転換(せいてんかん)を吹聴(ふいちょう)したのかしら。
性転換(せいてんかん)って、土木工事(どぼくこうじ)ですが、
国民(こくみん)は、儲(もう)かりません。
わたしは、
溶鉱炉(ようこうろ)の中(なか)で、生(う)まれましたので、
地球温暖化(ちきゅうおんだんか)と
人口減少(じんこうげんしょう)の関係(かんけい)が、
気(き)になって、仕方(しかた)ありませんでした。
ゲーテのファウストは、
海岸地方(かいがいちほう)の土地(とち)に、
土木工事(どぼくこうじ)を行(おこ)ない、
宮殿(きゅうでん)を築(きず)き、
夢(ゆめ)のように、死(し)にましたけれど、
錬金術師(れんきんじゅつし)とも、言(い)われていました。
溶鉱炉(ようこうろ)は、
サラマンダーという神(かみ)さまの住(す)む子宮(しきゅう)
でした。
徳川家康(とくがわいえやす)って、
戦争(せんそう)や同性愛(どうせいあい)が、
大嫌(だいきら)いの、
生殖本位(せいしょくほんい)の人(ひと)でしたので、
江戸(えど)の町(まち)を作(つく)り、
東照宮(とうしょうぐう)という神(かみ)さまに、
祀(まつ)られました。
わたしは、
GID(性同一性障害)や両生類(りょうせいるい)でないのに、
サラマンダーは、
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