近づけなかったので、遠(とお)くから写しましたが、
オリジナルサイズに拡大すると、実の成っているのがわかります。
まだ、緑色ですけれど、秋に熟(じゅく)すと、真っ黒になります。
よく熟(じゅく)した実は、干し柿みたいに甘いの。
子供も、小鳥たちも、椋木(むくのき)の実が大好きでした。
最近の子は、知らないと思います。
椋木(むくのき)の葉っぱは、ざらざらして、
紙(かみ)やすりの代わりになります。
幹の網目模様(あみめもよう)が、よく目立つので、
他人の変更不能や変更困難な事を、責めてはいけません、
と言うと、怒られます。
人を殺した事実も、変更不能ですから、
これを責めてはいけないのなら、
責任や自己同一性が、成り立ちません。
自我って、責任感や自己同一性や、
意識の免疫機能のような、個体の識別機能などのことですけれど、
同じ分類の仕方ですと、
自我だけでなく、事実や感情も、意識の中身を分類したものです。
自我も事実も感情も、他の個体とのコミュニケーションによって、
文化的に認識される情報です。
けっして、無意識の自動機械のように処理される情報でなく、
意識と言われます。
情報を処理するプログラムが、
生れつきに個体の中に備わっているのでなく、
他の個体との
コミュニケーションによって得られたプログラムですので、
本人の考えと、他人や社会の考えとを、識別するのは、
原理的に不可能です。
意識って、コミュニケーションによって、共有されますから、
違った個体が、同じ事実を見ることができます。
個体の単位で起こる仕組みでありません。
自我や事実や感情などの、意識の内容って、
無意識の自動機械のように処理される情報の中から、
特定の情報を抽出して、編集して、加工して、
意識の内容と言われる対象を認識します。
そのためのプログラムが、みんなと一緒ですから、
意識の内容は、共有可能なものに変形されたデータにすぎません。
個体って、端末機械にすぎないって意味ですけれど、
中心になる大きなコンピュータがあるのでなく、
けっして、権力に従属しているのでもありません。
端末機械ばかりの集まりの、みんなのネットワークが、
全体として、一つのコンピュータのように機能しています。
こんなことを言うと、全体主義と指弾されて、
怒られるかも知れませんが、
インターネットが全体主義でないのなら、
人間社会も全体主義でない、という意味です。
大脳って、
他の個体とのコミュニケーションのための臓器ですけれど、
意識の内容と言われるものを、認識することに、
コミュニケーションの機能が現われています。
意識の内容って、自我や事実や感情などのことですけれど、
別の分類の仕方をすれば、時間や空間や論理のこととも言えます。
無意識の自動機械のように、情報が処理されるのでなく、
意識として認識されるには、
他の個体とのコミュニケーションが必要です。
認識の行われる場所が、個体の大脳という端末機械であっても、
認識のためのプログラムが、
他の個体とのコミュニケーションによって融通されますので、
認識の主体は、
個体と言うよりも、コミュニケーションのネットワークなの。
意識って、抽出されて編集加工されたものが認識されます。
事実と言われるのも、意識の内容の一つですから、
わたしたちの価値観と、事実として見えるものとは、一致します。
自分一人だけのプログラムを使ったのでは、
みんなに共通の事実が見えませんので、
いつも、みんなとのコミュニケーションを、絶やしてはいけません。
みんなに共通のプログラムって、数式や文章を変形するように、
あれこれやと、良いものがないかと、
みんなが工夫を凝らしているでしょう?
数式や言葉だけでなく、文化と言われるものは、みんなそうです。
良いものは、みんなに是認されて、みんなの支持を受けなければ、
みんなの共通のプログラムとして、流通しません。
事実のほうも、そうでしょう?
みんなが、こうすれば上手く行くのでないかと、
事実を変形して加工しているでしょう?
実験をして、瀬踏みをして、試行錯誤をして、
良いものを取捨選択しています。
技術と言われるやつね。
数式や言葉の編集や変形も、事実の変形や加工も、
情報の記号式を変形して、うまい定義を工夫する作業です。
記号って、
ノートに書かれた数字や文字や、発声された音声でなくても、
いわゆる物体や事実であっても、構わないでしょう?
手話は、動作が記号ですし、
石ころや堤防が、記号や記号式であっても、構いません。
わたしたちが、溝を掘り、石を積み、土を盛り、堤防を作り、
ダムや運河を作るのは、
物体の形を使った記号の集まりとしての、
記号式を変形する作業ですから、数式や文章の変形と同じです。
実際、数式や文章も、
鉛筆の粒子で書かれた文字という物体や、発声された音波などの、
事実を変形して工夫されますから、ダムや運河の構築と、同じです。
粒子や音波やダムや運河を変形して、作っているのは、
そのような事実という意識の内容を認識するためのプログラムなの。
認識された意識の内容と、
コミュニケーションによって伝えられる認識のプログラムとが、
一致するように、
わたしたちは事実を変形して、プログラムを作っています。
数式や文章の変形も、事実の変形と同じなの。
個人単位で、人間の責任を追求するのは、
コミュニケーションを怠った責任を糾弾するようなものです。
みんなと一緒のプログラムを使わなかった責任が、
端末機械にある、と言います。
フランス革命以後の、近代的な法律が、そう言っていますが、
自分一人だけにしか通じない言葉を使えば、
認知障害と言われて、責任能力がないとされるのと、同じです。
発声言語だけでなく、手話や表情などの、
あらゆるコミュニケーションの手段が不能であれば、
知的障害と言われますが、もちろん認知障害の一種です。
夢の中や、赤ちゃんの心って、
健常であっても、みんな、他人と違ったものが見えています。
人間は、一人では生きていけませんので、
必ず、コミュニケーションの手段を習得しなければいけません。
当たり前ですけれど、コミュニケーションを断てば、
みんなと一緒の事実が見えなくなるの。
みんなと違うことをしていると、
妄想や幻覚が現れ、支離滅裂な言動になり、
統合失調症と言われます。
GID(性同一性障害)は、幾分その傾向がありますけれど、
まだ、それほどではありませんので、統合失調症と言われません。
それにもかかわらず、生殖機能を破壊して、治療とするのは、
昔のロボトミーが、脳を切り、人為的に精神を壊して、
治療と称したのと、同じ考え方です。
性転換が、精神障害者のための治療として考え出された時代は、
薬物療法以前の、まだロボトミーの時代でした。
性転換医療って、古めかしい医療なの。
欧米では、同性愛差別がありましたので、
古い治療法が、今も流行しています。
後(おく)れているの。
日本には、欧米のような同性愛差別がありませんでしたが、
欧米の猿真似(さるまね)が癖(くせ)になっていますので、
御相伴(ごしょうばん)をする羽目(はめ)になっています。
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