連翹(れんぎょう)って、
公園へ行けば、ありきたりに植わっていますが、
翹(ぎょう)の意味が、難(むずか)しくて…
あげる、つまだてる、すぐれる、と読みますから、
そういう意味と思います。
わたしは、翹望や翹首などの語を、使うことがあります。
人名に堯(ぎょう)とあれば、たかし、と読みますが、
古代の徳の高い帝王の名前の、堯と舜(しゅん)を連想します。
堯は、土器を高く積み上げた形らしく、
焼の字も、そうですが、土器を焼(や)くことに、関係があります。
翹は、鳥が長い尾羽を上げる意味と、辞書に書かれています。
連翹は、花の形が、それに似ている、と言うのでしょうか。
ところが、中国では、連翹と言えば、
巴草(ともえそう)や弟切草(おとぎりそう)などの、
オトギリソウ科のヒュッペリカム属を意味しているらしく、
日本人は、植物名を間違えたそうです。
日本の漢方薬では、間違いのまま、今も通用していますから、
性別の意味を、文化的に変えて行くのは、
みんなが合意すれば、みんなの勝手ですけれど、
法律や規則や、
成文化されていない有象無象(うぞうむぞう)の文化などは、
みんなと一緒のことをさせるために、あるようなものですから、
みんなって、いわば権力です。
民主的でしょ。
言葉は、法律でありませんけれど、文化の代表みたいなものです。
他人に通じなければ、言葉と言えませんので、
自分一人だけの言葉と言うのは、ありません。
他人に通じるのであれば、発声言語でなくても、
文字や手話や動作などの、意味を伝える記号が、言葉と言われます。
表情や服装や持ち物なども、言葉かも知れません。
コミュニケーションって、なんらかの言葉を使いますから、
みんなと一緒にする目的です。
一人一人が分業をして、違うことをするのも、
みんなで合意されたものは、
みんなと一緒のことをする、と言います。
ややこしいですけれど、適当にわかって下さい。
中学生の国語力ね。
合意がなければ、たぶん喧嘩になり、殺し合いになります。
雲となり、雨となる、と言いますけれど、
蜘蛛(くも)や蟷螂(かまきり)は、性交渉のあとに、
雄(おす)が早く逃げないと、雌(めす)に食べられます。
雲となり、雨となるって、男女が仲良く愛し合うことですけれど、
どういうわけか、衆道(しゅどう)の表現に、よく使われます。
衆道って、男性同性愛のことね。
早く逃げないと食べられる、と見るのは、
人間の面白(おもしろ)可笑(おか)しい解釈です。
自然のことを、文化的な意志の表現として見る目と、
人間のことを、自然界の出来事として見る目の、両方があるから、
物事は、立体的に見えます。
GID(性同一性障害)の人に、怒られますけれど、
人間の心も、雲や雨のように、
美しい自然現象と見ることができます。
楚(そ)の懐王(かいおう)という王様が、
高唐(こうとう)という楼台(ろうだい)で昼寝をしていたところ、
巫山(ふざん)から来た婦人に、
枕席(ちんせき)を薦められました。
天皇さんの外出を、行幸(ぎょうこう)と言いますが、
幸せって、どういう意味かしら。
王様は、見知らぬ女性を、幸せにしましたが、
彼女の言うには、とても険しい山に住んでいます。
それでも、朝には雲となり、暮れには雨となり、
来る日も来る日も、あなたにお遭いしたい、と申します。
王様も大変ですので、彼女を祭る廟(びょう)を建てましたが、
子供のいるMtF(male to female 男→女)って、
いい御身分なのかしら。
自然の出来事を、文化的な意志の現われのように見る目と、
人間のことを、自然の美しい出来事として見る目の違いって、
みんなと一緒のことをさせようとする意志は、
自然の摂理に一致するってことでしょう?
GID(性同一性障害)を皆殺しにして間引くのと、
心の赴(おもむ)くままに、生きてみたい、と思うのも、
同じみたいに見えます。
性転換って、共食いをしている、と言うより、
子供のいるGIDが、子供のいないGIDを、
一方的に間引いているだけと、見えないこともありません。
わたしは、1970年頃に、性転換医療に嵌(はま)りましたけれど、
そのときは、SRSを受けたい人って、子供のいない人ばかりでした。
日本では、1980年頃から、
TV(トランスベスティズム)を、客引きの謳い文句にする風俗業が、
流行(はや)り始めて、
子供のいる人たちが、性ホルモン剤を飲み、
やがて、SRS(性転換手術)を受けるようになりました。
流行の始めを見ていた限りでは、
子供のいるMtF(male to female 男→女)のGIDって、
インポテンツでしたけれど、
ほとんどは、同性愛の趣味と、奥さんとの性交渉との、
いわゆる両性愛(バイ)でした。
子供が生まれると、同性愛のほうが好きなので、
そっち一本にしたくなる気持ちと、
インポテンツになる気持ちとが、だいたい同じかしら。
なかには、奥さんとだけって、主張する人もいましたけれど、
噂(うわさ)では、いわゆる女装レズってのを、やっていました。
真偽は、確かめようがありません。
そんなのは、どうでも良いのですけれど、
肝心なのは、やっぱり、子供の有無です。
子供のいないGIDの性転換をそそのかしたのが、
TV(トランスベスティズム)のうちの、子供いる人たちでした。
わたしは、子供のいないGIDの人に、
性転換をしないように薦めていましたけれど、
TVの人に袖を引かれて、性転換をしてしまいましたので、
どうしようもありませんでした。
性転換って、強制的に何かをする医療でありませんから、
本人の気持ちを、こちらで変更することはできません。
結局、行くところへ行ってしまいますけれど、
流行を作って唆(そその)さなくてもいいのになあって、
思いました。
子供のいない人や、性分化疾患の人を、
踏み台にしているのかしら。
いつも、喧嘩になっていましたので、
子供のいるGIDや男性同性愛の人たちの性別の文化の考え方に、
子供のいないGIDや、性分化疾患の人たちが、付いて行くって、
首を傾げます。
定職の経験の少ない人たちが、性転換の先駆者ですけれど、
庇(ひさし)を貸して、母屋を取られる、という言葉もあります。
昔の人は、お金がなくて、汲々(きゅうきゅう)していました。
性転換医療って、
貧乏人が飢え死にをしないように、凌いで行く医療でしたけれど、
昔も、GID(性同一性障害)の人って、
うまく行くと、すぐに自惚(うぬぼ)れました。
誰でも有頂天になりますから、人間的ですけれど、
なんとなく、一人の人間の心の落差が、大きいみたい。
滝って、落差が大きいと、美しく見えます
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