浮草(うきくさ)って、単子葉類なんだって。
葉状体と言われますが、
ようするに、茎と葉とが一緒になってしまい、区別がつかない、
わびぬれば
身をうき草の ねをたえて
さそふ水あらば いなんとぞ思ふ
小野小町
古今和歌集 巻十八 938
文屋の康秀みかはのぞうになりて、
あがた見にはえいでたたじや、
といひやれりける返事によめる
浮き草は、憂き草ね。
音(ね)を耐えてと、根を絶えてと、どちらの意味にでも。
喜びの声と、男性のこと。
いなんは、往(い)なん、行ってしまおう。
否(いな)むの意味も、お忘れなく。
ひっそりと侘び住まいに耐えて、
心の晴れぬ今日(きょう)このごろです。
お誘いがあれば、身を任せてしまいそう。
でも、御遠慮いたします。
文屋(ふんや)の康秀は、
文室康秀(ふんやのやすひで)で、
平安時代の六歌仙の一人。
ぞうは、掾(じょう)で、
県庁勤務の国司という中央官僚の、
三等官。
上から三番目に偉い人。
あがたは県で、ここでは三河のこと。
「あがたみには」って、
三河の田舎を見るために、
つまり、三河に赴任するために。
「えいでたたじ」の、えは得で、
え(なになに)否定形、という定型句。
何々することが出来ない。
「いでたつ」は、
出(い)で発(た)つ。
「じ」は、その未来の否定形。
「や」は、ここでは疑問や反語よりも、
感嘆や強意かも知れませんが、
どちらかわからないので、
気を持たせます。
「あがた見にはえいでたたじや」は、
三河の田舎県に赴任するのが、
億劫(おっくう)で、
とても出発できそうにありません、
という意味。
そういうふうに、
文室康秀(ふんやのやすひで)は、
小野小町に宛てて、手紙を書いたの。
その返事の、彼女の歌が、
上の浮き草です。
文室康秀(ふんやのやすひで)が、
「三河の田舎に、一人で赴任できそうにありません」と、
暗(あん)に誘いの手紙を書き、
小野小町が、
「誘われれば、靡(なび)いてしまいそうですが、
どうか、お気をつけて行ってらっしゃいませ」と、
遠回しにお断りしました。
三河に赴任するのに、一緒に行けるわけがありません。
現代のように恋愛結婚ができるのでしたら、
プロポーズと同じ意味になりますけれど、
昔は、恋愛と結婚を、別のこととして楽しんだだけでなく、
恋愛と歌も、別のこととして楽しみました。
現代でも、バイオリンの演奏は、結婚や性交渉と別物のように、
本気で誘っているのでなく、本気で断っているのでもありません。
お二人とも、そのつもりになった気分を、楽しんでいます。
出発の挨拶を受けて、お見送りの言葉を返したの。
それが、この歌の真意です。
恋愛は関係ありませんから、
GID(性同一性障害)の人も、出張する時は、
「あなたの顔を見れなくなると、気が変になりそうです」と、
挨拶して下さい。
すると、相手の人は、
「あなたがいなくなると、静かになります」と、言ってくれます。
恋愛は関係ありません。
けっして、気が変になりそうです、と言って、
三島由紀夫さんのように、切腹してはいけません。
静かになります、と言って、
自分の耳に、拳銃を発射してはいけません。
天皇制や自衛隊は、関係ありません。
彼が早稲田大学で講演した時に、主催した学生さんの自治会は、
「文壇の狂人きたる!」と、ポスターを刷ったそうです。
生きている時から、頭がおかしいと、
健常な人たちには、わかっていましたが、
仲間内の文壇や芸能界の、ホモやオカマやGIDの人たちには、
わかりませんでした。
簡易水道を贈ると、サモアの人は、
「蛇口をひねるたびに、あなたの顔を思い出す」と、
言ってくれました。
田中角栄という人が、中国に行くと、周恩来という人が、
「水を飲む時には、井戸を掘った人のことを、忘れない」と、
言いました。
同性愛でありませんから、
ちんちんやお尻のことは、関係ありません。
本当に性ホルモン剤を飲んで、本当に手術を受けて、
本当に戸籍の性別を変更するのは、紛れもなく精神の病気です。
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