ネムノキ 0190 規則性とプログラム

合歓(ねむ)の木は、

多くのマメ科植物と同様に、

夜に葉が閉じて、昼は開いています。

 

サーカディアンリズム(circadian rhythm)

ですが、

日周性と翻訳すれば、

怒られるかも知れません。

 

概日(がいじつ)リズムや

体内時計でなければ、減点すると。

 

ネムノキの鉢植えは、洞窟の中でも、

夜になれば葉を閉じ、朝になれば開きます。

 

光だけでなく、

温度や湿度や、気体の濃度などにも、

影響されずに、朝晩を知っています。 

 

なんらかの仕組が、

1日のリズムと、一致していますが、

わかりませんので、

体内時計と言われています。

 

メカニズムがわかったような顔をすると、

小保方晴子君のように、

袋叩きに遭(あ)うかも。

 

生物には、生まれつきの体内時計があると、

最初から想定して、

考え方や用語を、神秘的に統一しなければ、

生物学者や植物学者は、気が済みません。

 

彼らは、ロマンティストですから、

時間という便利な分類法を、

理解したくありません。

 

時間は、手をつけてはいけない聖域です。

 

生命は、コンピュータや機械と、違う。

そう、信じています。

 

わたしは、そんな迷信と、付き合うのが、

面倒くさい。

 

証拠や証明を、傍聴人に吟味させずに、

人を裁いて処刑したり、

証拠や証明もなく、人の心を病気として、

人格を処刑したりするのは、

体内時計を信仰する人たちに育てられて、

刑事コロンボや大岡越前守のように、

お茶の間の娯楽番組向けに、

改良された人たちでしょうか。

 

 

   ***    ***

 

 

物事(ものごと)には、

納得できる仕組があると、限りませんし、

何らかの規則性を、

自然や人間が、保証しているとも、

思えません。

 

混沌としているのが良いのか、

特定の秩序を好みたいのか、

それとも、絶対に間違いないと、

信じざるを得ない人や文化の老化が、

嬉しいのかって、

だれも、理由を知りません。

 

自然や論理法則は、不滅であると、

信じられる人は、幸せです。

 

人は、みな死ぬ、とかね。

みんなを、見たことがないので、

わたしは知りません。

 

この地球に、75億人も生きているのに、

いったい誰が、全員を見たと、言うのですか。

 

見たこともないのに、

人は、みな死ぬと、わかるわけがない。

 

夢のように、

知覚は、対象がなくても、成り立ちますから、

知覚がなくても、

事実と言われる物事(ものごと)はあると、

信じる人もいます。

 

物理化学の教科書に、

そう書いてありますから、

だれにも、知覚されない物事(ものごと)が、

物理化学の言う規則性の通りに、

事実として、確かに再現される理由は、

言うまでもありません。

 

 

   小学5年生の頃に、

   担任の先生に、よく笑われました。

 

   教科書は、

   片方の試験管に集められた気体に、

   火のついた線香を近づけると、

   ポンッと、爆発するから、

   水素とわかる。

 

   もう一方の試験管の気体に、

   線香を入れると、激しく燃えるから、

   酸素とわかると、言います。

 

   先生に質問されたので、

   そんなの、わかるワケがない、

   この教科書を書いた大人は、あほだと、

   答えました。

 

   こんなことも、わからないのかと、

   笑われて、

   真顔(まがお)で怒られました。

  

   児童は、だれも笑いません。

 

   神戸大学を卒業したばかりの、

   若い先生でしたが、

   電気分解も理解できないほどの、

   あほの大学なのか、

   それとも、

   まぐれ当たりで入学した劣等生か、

   もしかしたら、

   あほバカとは、無関係に、

   大学は、入学したり卒業したりが、

   できるのかと、悩みました。

 

   原理的に、わかるワケがない。

 

 

小学校の教科書に書いてあることは、

全部ウソかも知れないと、

小学2年生の頃に、疑い始めて、

4年生には、確信していました。

 

中学生になると、

真偽の根拠は、任意ですから、

教科書や先生は、

権力を振るいたいに、違いないと、

疑いました。

 

権力は、そんなに良いものかと、

生殖と同じくらいに、

わかりませんでした。

 

任意の真偽の判断を、

法律のような権力が、勝手に取り締まるのは、

簡単ですが、

自然科学の判断の通りに、

科学技術の事実が、再現されるのは、

知覚のメカニズムに、自然科学の判断が、

取り込まれていなければ、いけません。

 

その仕組の細部を、詰めるのが、

中学生には、楽しすぎて、

学校に行きたくありませんでした。

 

列挙した論理法則の教条を、

品種改良の結果の、

生まれつきの変更不能なプログラムの

組み合わせや、

生まれた後の、無意識と老化のせいで、

変更不能になった習慣や文化などの

プログラムの組み合わせに、

仕分けして、

論理法則や時間や空間などの、流行文化が、

知覚の仕組を形成する手順に、

わたしは夢中でした。

 

 

   春休みや夏休みなどに、

   日本全国をヒッチハイクしながら、

   記号論理学に、思いを寄せました。

 

   理科の先生には、

   ロケットを飛ばして、

   宇宙へ行きたいと、

   言っていましたので、

   東大へ行くのかと、尋ねられて、

   うんざりでした。

 

   ヒッチハイクに行きたい。

 

   普段は、登校するよりも、

   植物採集をして、手足を動かしながら、

   知覚の規則性と事実の再現性の、

   組み合わせや枝分かれを、

   試してみるのが、

   3度のメシよりも、好きでした。 

 

   アメリカで、

   パソコンのキットが、発売されたので、

   通信販売で買いました。

  

   キーボードやモニター画面が、

   ありませんでので、

   中古テレビやタイプライターを、

   場末(ばすえ)の古道具屋で買い、

   パソコンにくっつけました。

 

   ハードウェアが完成すれば、

   次はプログラムです。

 

   わたしが作った判断の手順の通りに、

   パソコンが電気回路を制御しますから、

   プログラムの優劣が、

   丸出しになります。

 

   これを、やりたかったので、

   パソコンを作ったのに、

   市販の電卓でも、

   複雑な計算が、速くできるようになり、

   ワープロが発売されました。

 

   パソコンを使い、

   文章を書いているわたしは、

   笑いものでした。

 

   今は、ワープロなんて、消滅して、

   若い子は知りませんから、

   自分の思い通りに、操作する意味を、

   理解できなかった人たちが、

   笑ったのでしょう。

 

 

思い通りが、わからないって、

犬や牛みたいです。

 

わたしの作った規則性を、放り込めば、

人類の脳の、知覚の仕組が、作動して、

わたしの期待する事実が、知覚の対象として、

みんなの目の前に、再現されるから、

面白いのに。

 

他人の脳は、コンピュータですから、

わたしの思い通りに、動かせば、

みんなの目に、

わたしの作った事実が見えるのは、

当たり前です。

 

自然科学の規則性の通りに、

科学技術の事実が、再現されるのと、

同じです。

 

わたしは、自然科学のような、

ロマンティックな規則性を、

信じていませんので、

わたしの作った規則性が、

人類の知覚の対象を、規定して、

具体的に、事実が再現されれば、

科学技術よりも、面白い世の中や人生に

なります。

 

善悪美醜だけでなく、真偽の価値も、

迷信ですから、わたしは否定します。

 

 

   コンピュータが、そうです。

 

   価値により、判断されるのでなく、

   プログラムの通りに、

   組み合わせを選択します。

 

   選択されたほうと、

   されなかったほうの、いずれかを、

   真や偽と、名付けるだけであり、

   正しいとか、本当であるとかの、

   価値には、無関係です。

 

   真偽は、選択の片方と、もう一方を、

   呼び分けるための、名前に過ぎません。

   

   刑事裁判では、これこれの事実であると、

   その証拠を提示します。

 

   公開ですが、

   嘘や間違いの証拠かも、知れません。

 

   指紋が出たと、言いますが

   よそで採取した偽りの指紋と、

   だれが、どのようにして、

   検証しますか。

 

   現場に足跡があったと、

   写真を提示します。

 

   その靴を、捜査員が履いて、

   つけた足跡を、

   写真に撮ったのかも知れません。

 

   物的証拠や証言は、ほとんど自由に、

   捏(でっ)ち上げられます。

 

   警察に反対する証言者は、

   警察に睨まれます。

 

   どうして、傍聴すれば、

   証拠や証言が、嘘や間違いでないと、

   傍聴人に、判断できますか。

 

   嘘や間違いを、判断できないのに、

   何のための、傍聴ですか。

 

   裁判を公開しなければ、

   裁判は、

   権力による事務的な記録の捏造に、

   なります。

 

   書き放題です。

 

   公開しても、傍聴人は、

   嘘や間違いを、判断できません。

 

   これこれのことを、述べたと、

   見て聞くだけです。

 

   事務文書の記録と、

   公判の進行や発言が、同じであると、

   確認するだけです。

 

 

強制的な精神病の診断では、

鑑定診察の進行や発言が、

実際とは、まったく違います。

 

鑑定や診察の記録が、

架空の進行や発言であり、

事実でなく、嘘八百の記録ですから、

非公開の裁判と、同じ実態が、

現実の鑑定や診察の、ほぼ全部です。

 

本当のことは、まず書かれません。

 

公開されずに、ビデオも要求されず、

当人の同意や署名も、不要ですから、

精神科医の書き放題です。

 

なぜ、精神病があると、

人が信じるのかが、不思議です。

 

精神病と診断すれば、

即時に、抗精神病薬を強制投与しますから、

どれほど健康な精神の持ち主でも、

必ず、精神病の症状を、発症します。

 

その症状が、

診断時の精神病の症状であったと、

診断書に記述されているだけです。

 

自作自演と言いますが、

コンピュータや脳や、

知覚や事実などの仕組と、同じです。

 

 

 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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