ヒメジョオン 0188 知覚の仕方の純化

姫女苑(ひめじょおん)は、

梅雨時から秋まで咲く2年草です。

 

春紫菀(ハルジオン)は、

4~5月に咲く多年草です。

 

花びらの幅が、

ヒメジョオンは1.5mm以上で、

ハルジオンは1.2mm未満と、

言われていますが、

1.3mm1.4mmというのを、

しょっちゅう見かけます。

 

ハルジオンの葉は、少し茎を抱き、

ヒメジョオンは、葉柄がないものの、

茎を抱きません。

 

咲く季節が違うので、

なんとなく、わかりますが、

今頃なら、

まだハルジオンが、咲いているかも。

 

ヒメジョオンの茎は、

中身が詰まっていますが、

ハルジオンは、中空ですから、

これが、いちばん確実かも。

 

わたしは、

品種や変種の、すぐに出来る草花が、

苦手です。

 

ヒメジョオンとハルジオンは、

そう簡単に、雑種が出来ないので、

別の種(しゅ)とされています。

 

同じErigeron(ムカシヨモギ属)です。

 

 

   ***    ***

 

 

   生殖できずに、

   めったに雑種ができない理由を、

   わたしは知りませんから、

   2年草と多年草や、花びらの幅や、

   茎の中実と中空や、

   茎を抱かないと抱くなどの,違いが、

   原因に関係ないとも、知りません。

 

   咲く季節の違いが、生殖不能の原因に、

   1番近いような気もしますが、

   生殖できない原因でなければ、

   変更不能の違いが生ずることもないと、

   必ずしも言えません。

 

   こういう理屈は、

   わたしの経験から言えば、

   小学2年生頃に、ようやく、

   言葉に表現することができるくらいに、

   言葉の使用に、習熟しましたが、

   言葉に表現できない幼児の頃から、

   直感的には、当たり前であると、

   自覚していました。

 

   言葉と、論理法則と言われる規則性が、

   一致することが多く

   論理法則は、流行の文法にすぎないと、

   言われていますが、

   言葉に表現できない幼児の頃の、

   直感的な自覚が、

   論理法則によるものなのか、

   そうでないのかは、確定できません。

 

 

わたしたちは、

論理法則と言われる流行文化を、

知覚の規則性とするように、

おそらく1才未満の赤ちゃんの頃に、

習得して、以後変更不能になりますので、

論理的に説明される通りに、

科学技術の事実が、再現されます。

 

論理法則のほうは、文化的に、

特定の流行が、変更不能になりましたので、

特定の文化に馴染まない者を、

殺すことにより、

遺伝形質の中から、特定の形質を選び、

純化したにすぎません。

 

 

   科学技術の事実のように、

   飛行機や宇宙船が、

   計算通りに空を飛び、

   だれが行なっても、

   何度も繰り返して再現されるのは、

   その通りに知覚される規則性ですから、

   赤ちゃんの頃に繰り返すことにより、

   習得された特定の文化的な判断が、

   無意識の知覚の習慣になり、

   同じ文化に染まったみんなの、

   同じように規則的な知覚の仕方が、

   変更不能になっているだけです。

 

   2足歩行が、

   無意識に行なわれるにもかかわらずに、

   意志の命令によることは、

   自由に立ち止まり、

   自由に歩き始めることが出来るので、

   誰にでも、

   習慣であると検証できますが、

   それだけでなく、

   生まれつきのプログラムが、

   必要であることは、

   猿と比べたり、

   生まれつきに健康にもかかわらずに、

   2足歩行のできない人と、

   比べたりしなければ、

   なかなか確定できません。

 

 

知覚の規則性が、ただの習慣でなく、

生まれつきに、

すでに純化されたプログラムを、

遺伝的に受け継いでいることを、

直感的に自覚するのは、

幼児には不可能であり、言葉に習熟した後に、

法律や歴史の要点が、

品種改良のための人殺しを、善良として、

他人に強制して教え込んでいることを、

理解しなければいけません。

 

法律が、違反者を懲罰することよりも、

精神医療が、現行の文化に馴染まない者の、

人格を抹殺することのほうが、

科学技術のように、

確実と信じられている事実を守るには、

必需です。

 

 

   わたしは、自由に、

   2足歩行を始めたり、

   止めたりができるように、

   論理法則の通りに

   知覚したり、しなかったりを、

   自由に変更できると、

   幼児の頃から、知っていました。

 

   科学技術の再現性の変更不能な事実は、

   ただの、知覚の癖でなければ、

   他人のように、生まれつきに、

   その癖が純化されたプログラムを、

   遺伝的に受け継いだせいで、

   色覚障害の人が、

   赤と緑を識別できないように、

   それ以外の選択ができずに、

   変更不能になっているだけであると。

 

   言葉や法律や歴史などを、知った今は、

   そのように表現できますが、

   遺伝的に純化されたプログラムを、

   受け継いでいないわたしには、

   自由に立ち止まったり、

   歩き出したりの、出来ない他人が、

   安物の機械に見えます。

 

 

科学技術のように、

流行の論理法則を使わなければ

知覚できない事のために、

ここ数十万年の人間の流行文化に、

意識を固定しなければいけないのは、

なんで、タバコを吸わされるのかと、

文句を言いたくなります。

 

酒も飲みたくないが、他人には選択不能で、

わたしには、選択可能であるって、

面倒臭い。

 

こいつら他人が、圧倒的多数派であるのは、

わたしのような人間を殺したから、

遺伝的素質が純化されたのが、原因です。

 

科学技術は、

鉄砲や黒船や原爆やコンピュータのように、

品種改良が目的ですから、わたしは危険です。

 

ロマン主義者に見つかると、必ず殺される。

 

そういう思いを、

このブログに書いていますが、

精神病患者は、

抗精神病薬を飲まされていますから、

不可逆的なあほに、なっています。

 

わたしだけが、生き残っている、

という思いを、だれとも共有できません。

 

科学技術が間違いないと、確信されるのは、

ただの癖でなければ、

知覚の仕方の遺伝なのに・・・

 

科学技術は便利であると、思うのが、

2足歩行モードを変更できない人が、

そうでない奴を、殺して来た科学技術により、

純化された遺伝にすぎませんから、

世代を超えた犠牲者と、言うべきか、

ゾンビと言うべきか。

 

   

   

 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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