車輪のように、葉をつけるので、
この名前ですが、
輪生でなく、バラ科ですから互生です。
葉が、密集していますので、
枝先のほうの、上から見ると、
確かに、葉が全方向に伸びて、
車輪のように見えないことも、ありません。
わたしは、
道路の分離帯に植わっているので、
車を思い出します。
排気ガスに曝(さら)されて、
埃(ほこり)まみれでも、育つのでしょう。
たいていの人は、分離帯の低木を、
庭に植えたくないけれど、
放ったらかしでも、大丈夫なので、
地植えなら、水やりの必要もありません。
長期間、留守にする人には、もって来いです。
海岸の植物は、根を、深く伸ばしますので、
乾燥に強く、
海岸の砂地に似た土地が、
良いかも知れません。
わたしは、足元の風通しを、良くしたいので、
皐月や躑躅や車輪梅などの、灌木を、
あまり植えませんでした。
横須賀に暮らしていた時ですが。
今は、娘夫婦や孫たちに、家を明け渡して、
都心の、しがないマンション暮らしですから、
出入り自由の、刑務所のようなものです。
自分の庭は、ありません。
1つ1つの花は、バラ科ですので、
梅に似ていますが、
この花序を見て、梅と思う人は、あほです。
わたしは、そういう天然ボケが、好きですが、
わざと貶(おとし)めて、
讒言(ざんげん)をする捜査員や、
精神病と診断して、
人格を葬り去る精神科医などが、
世の中には、たくさんいます。
*** ***
脳の神経細胞の樹状突起は、
樹木の枝や、進化系統図のように、
枝分かれをしています。
判断もまた、枝分かれをしますが、
神経細胞の樹状突起は、
使わなければ、すぐに消滅します。
男性の朝立ちのように、
使わなくても、樹状突起が消滅しないように、
毎日、試験的に、電気が通るように、
プログラムされていたりします。
コンピューターにも、ものすごい数の、
電気回路の枝分かれがありますが、
ICやLSIなどと言われる集積回路は、
チップの中に、密封されています。
電気回路ですから、
使わなくても、消滅しません。
わたしたちの記憶は、
特定の判断の組み合わせのみが、
変更不能になり、
他の判断の組み合わせを、
なぞることが出来なくなった状態を、
言います。
樹状突起の廃墟であり、
玉の動かない算盤(そろばん)に、
似ています。
ほとんどの枝分かれを失い、
すべての判断の組み合わせを
再現する汎用性もなく、
ただ、特定の判断の道筋だけが、
サンゴ礁のように、
遺骸として残っているのが、
記憶の正体です。
特定の枝分かれの道筋のみが、
固く残り、
他の枝分かれが、
消滅してしまった樹状突起の、
生命活動を失った状態です。
脳の、生きている神経細胞について、
これが起こります。
記憶や記憶力が良いと、言えば、
文化的には、褒め言葉ですが、
生理的には、老化現象にすぎません。
他の判断の道筋を、
再現することができずに、
汎用性を失った神経細胞の、末路です。
知覚に、記憶の仕組みが、よく現れています。
ロマン主義者は、
物や事のような、対象を知覚すると、
考えましたが、
大昔から、知覚の対象の存在を、
だれも証明できませんでした。
対象がなくても、知覚できます。
むしろ、知覚するとは、
幻のように、
対象を作り出して、知ることでないかと、
疑われました。
わたしたちが、知覚や思考を、
モニターするように、自覚する機能は、
自分で作り出した対象を、
自分で知覚するために、必要であると、
言われています。
モニター機能を経て、
作り出された幻のことを、事実と言います。
科学技術の事実は、幻なのかと、
疑問になります。
目や耳や鼻は、何のためにあるのかと。
科学技術の事実が、
幻でないと、特別に信じられる理由は、
ありません。
事実が自作自演なら、
科学技術の事実が、
最も念入りに作られた自作自演である、
というだけの話です。
みんなの合意で、作られていますから。
目や耳などは、
幻を、幻と感じない端的な例であり、
自分自身のことは、
知覚や思考をモニターして、
自覚する仕組のように、
フィードバックしているので、
わかりにくいだけです。
わたしたちは、
変更不能になった判断の手順により、
毎度お馴染みの規則性に違わない幻を、
事実として知覚します。
わたしたちが知覚した事実は、
そうでなければいけないと、
確信するくらいに、脳の老化のせいで、
規則性の記憶が、変更不能になっています。
多くは、融通が効かなくなった文化を、
権力により、個人が強制されたものです。
わたしと、すぐ近くの人が、
同じ物事(ものごと)を知覚するのは、
同じ文化を、強制されているので、
ごく近くに居る2人が、
これこれの物事が見えるはずと、
想像した中身も、
酷似しているだけです。
空間的に近いと認識するのは、
そもそも、同じプログラムの結果の、
可能性が高い。
似ているプログラムを、いくつも使い、
似ている判断が、いくつも重なれば、
同じ事実が見えるのは、当たり前です。
知覚された事実が似ているのは、
判断のプログラムが似ていたからに、
決まっています。
事実と言われる知覚の対象は、
判断に使用された変更不能な規則性が、
表示されているだけです。
樹状突起の残骸が、
見えているにすぎません。
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