オオバボダイジュ 0164 メディアが同音異義語の花盛り

確認しなければいけませんが、
花を見れば、わりと簡単に識別できます。
 
関東地方北部から北のほうの山に、
自生しますが、
東京や大阪の公園でも、
ごく普通に見られます。
 
特に美しい花でありませんから、
何のために、公園に植えるのでしょうか。
 
細長い苞葉が、目立ちますので、
たくさんの樹種が植わっていれば、
楽しいと思います。
 
上海の街路樹のように、
プラタナス一点張りですと、
心も貧しくなりそうな・・・
 
植物の分類が好きな人って、
その傾向があるのかも。
 
牧野富太郎が代表ですが、
人と付き合わなければ、頭が悪くなるような。
 
好きな人は、やめられませんが、
わたしは、ほどほどにして置きます。
 
精神医学のほうは、
精神疾患の人や、その家族との付き合いが、
途絶えませんので、絶対にやめられません。
 
なんで、事実の証拠や証明もないのに、
何を根拠に、精神症状があるとして、
どのような規則性を信じたいために、
それを病気とするのでしょうか。
 
精神病なんて、無くても、何も困らないのに。
 
医者が、無理矢理に作った症状でなければ、
症状の事実が、ありませんから、
困るのは、別のことが原因に決まっています。
 
わたしの経験では、
小学2年生でも、瞬時にわかるのに、
一生、わからない人が、全人口の99.99%って、
ほんとうです。
 
嫌(いや)な奴のことを、
精神病と言っているだけなのに、
それが、理解できないって、
何が原因でしょうか。
 
事実や自然の、存在や規則性を信じるのと、
同じ仕組みですが。
 
菩提樹って、お釈迦さんが悟りを開いた木と、
同じ名前ですが、
その意味の実物は、違います。
 
同音異義語ですが、葉の形は、似ています。
 
人間の使っている言葉は、
すべてが同音異義語であり、
言葉の意味は、使うたびに異なると、
言われています。
 
だから、言葉は通じるのですが、
知覚の内容を、
他人に伝えることが出来なくても、
言葉が通じますから、
お目出度いことになります。
 
 
   ***   *** 
 
 
個人の知覚や思考が、
脳に記憶されて、保存されていると、
驚くべきことを、言う人もいます。
 
まるで、コンピュータのようです。
 
しかし、人間は、
1才以後に、例外的にしか、
ストレージを増設できないだけでなく、
インターネットのように、
他の脳と、連携することも出来ず、
プログラムの交換も、出来ません。
 
重機が、筋肉の不得手な機能を、
得意としているように、
コンピュータも、人間の脳にない機能が、
重宝されています。
 
脳が、コンピュータのようであるなら、
安物の、使用に耐えないコンピュータでしか、
ありません。
 
人間の脳が、
コンピュータのように、機能することは、
あり得ません。
 
 
   このブログは、
   脳とコンピュータの違いを、
   書いています。
 
   同じ言葉を、脳やコンピュータに、
   共通して使いますので、
   同音異義語の誤解を、
   忘れてはいけません。
 
   たとえば、記憶、保存、という言葉を、
   脳にもコンピュータにも、使いますが、
   脳の記憶や保存の仕方は、
   わかっていませんので、
   意味が同じでありません。
 
   今のところ、脳について、
   記憶や保存という言葉を使うのは、
   限りなく無意味に近い。
 
   わたしは、大脳生理学者でなく、
   ただの死にかけの、あほブログを、
   書いているだけですので、
   ざっくばらんに、
   記憶や保存という言葉を、
   脳についても使いますが、
   学者や医者が、仕事の上で使えば、
   ほんとうにアホかも知れません。
 
 
耳で聞く言葉や、目で見る文字だけでなく、
目で見る映像も、
言葉として使用されますから、
同音異義語を混同しては、いけません。
 
概念と言われる思考の単位だけでなく、
その組合せや枝分かれも、
言葉になりますから、
論理法則は、流行の文法にすぎないと、
言われています。
 
自然法則が、文学にすぎないだけでなく、
それを実証する科学技術の事実も、
映像による文章にすぎませんから、
同音異義語を識別できなければ、
話になりません。
 
耳で聞く言葉や、目で見る文字を、
喉や手が作り、発信したように、
科学技術の事実を作ったのが、
人間であるのは、当然です。
 
人間に依存しない自然の規則性が、
論理法則のような文法や、
人間の作った科学技術の事実により、
間違いないと確信されるのは、あほです。
  
 
   個人の知覚の内容を、
   コピーすることが、出来ませんので、
   他人の知覚の内容を、
   だれも検証できません。
 
   コンピュータのように、
   電線で繋いだり、SDカードを手渡せば、
   データやプログラムを、
   コピーできるのとは、
   根本的に違います。
 
   知覚の内容を、他人が検証できなければ、
   思考や記憶も、同じことです。
 
   知覚や記憶は、
   完全に個人的な出来事ですので、
   他人に、その内容を伝えるには、
   言葉や絵や写真やビデオなどの、
   他人とのコミュニケーションのための、
   メディアの表現によらなければ、
   なりません。
   
   メディアの同じ表現が、
   複数の人に、異存なく流通すれば、
   わたしたちは、
   複数の人に、共通の知覚があると、
   便宜的に表現します。
 
   他人の知覚や記憶を、
   検証できないのに、
   共通の知覚があると、
   判断できるわけがない。
 
   正しくは、メディアの同じ表現を、
   共有しているだけです。
 
   みんなの知覚や記憶も、そうですが、
   共用の感覚器官や脳が、
   どこにも無いだけでなく、
   他人の知覚や記憶を、
   検証できませんから、
   複数やみんなの、知覚や記憶が、
   確かに、自分の知覚や記憶であると、
   個人的にしか、だれも判断できません。
 
   メディアの表現としての、
   複数の人に共通の、知覚や記憶は、
   完全にバーチャルです。
 
   コンピュータは、
   バーチャルなコミュニケーションを、
   画一的に行ないますが、
   写真が実用化された19世紀から、
   人間の手作業により、
   ロマン主義と言われる試行錯誤が
   繰り返されて、
   2度の世界大戦や共産主義革命や
   ファシズムやホロコーストなどの、
   ど壺に嵌ったことは、
   中学生でも知っています。
   
 
コンピュータが、手作業による間違いを、
糾(ただ)しましたが、
ナチスドイツやソ連が潰(つぶ)れても、
ロマン主義は続いているのでないかと、
疑われます。
 
コンピュータは、
フランス革命によるロマン主義の、
切り札でないかと。
 
ヒトラーやスターリンの試みを、
今度こそは、失敗しないで完遂するための、
もっとも性悪(しょうわる)の手段かも
知れません。
 
イギリス経験論に由来する記号論理学は、
いわゆるウイーン学団の派生ですので、
コンピュータを作った考え方は、
進化論や精神医学と、
同じ根を共有しています。
 
それが証拠に、ロマン主義は廃れても、
日本国憲法や精神医学は、いまだに、
猖獗(しょうけつ)をきわめています。
  
 
   知覚や思考が、
   個人の脳に保存されている
   とする根拠は、希薄です。
 
   そのような記憶を、確認できません。
 
   脳の樹状突起の
   枝分かれやシナプスなどは、
   汎用的ですので、
   具体的な記憶を意味すると、
   解釈するのは、
   文化でしかありません。
 
   みんなの文化と、
   汎用的な脳の器質から、
   個人の具体的な記憶の違いを、
   導き出せませんが、
   個人の知覚や思考の中身を、
   だれも検証できませんから、当然です。
 
   個人の具体的な知覚や思考を、
   わたしは、
   脳を見ても、確認できません。
 
   ロマンティストでありませんので、
   わたしが確認できるのは、
   エステティックや人格のような、
   メディアの表現の違いとしての、
   文学だけです。
  
   具体的な文学表現の違いが、
   脳にあるとする根拠が、
   何もないように、
   思考や記憶が、
   メディアの文学でないという根拠も、
   ありません。
 
   エステティックや人格のように、
   思考や記憶も、
   文学の虚構かも知れません。
 
   脳は、
   思考もしなければ、記憶もしない。
   メディアの表現が、
   そのように作られているだけでないかと。
 
 
コンピュータは
画一的で典型的なメディアであると、
感じられることから、
コンピュータによる表現の違いが、
個人の具体的な、知覚の内容や、
人格や思想やエステティックや記憶などの、
端的な違いであると、
わたしは、素直に理解します。
 
けっして、メディアの背後に、
神様や自然や脳などの、超越的な存在があると、
感じられません。
  
秋篠宮の娘が、せっかく婚約を発表したのに、
借金でなく贈与であったから、
お金を返さなくても良いと、
相手の男が発言したのは、人格であると、
週刊誌が書き立てても、
彼の脳に、そのような思考や人格があると、
わたしは確認できません。
 
コミュニケションのためのメディアの、
具体的な言葉の表現を、彼が発して、
みんなに流通しているだけですから、
汎用の算盤(そろばん)であるところの、
脳の樹状突起を使った張本人が、
算盤自体や樹状突起自体であると、
考えるよりも、
そうでない誰かが使ったと、考えるほうが、
素直(すなお)です。
 
脳を見ても、
算盤の役を為す樹状突起のような、
汎用の道具が発達しているだけで、
算盤が、心臓や子宮を、
自動的に動かすように、
具体的な思考や記憶のための、
自動機械であるとは、到底、考えられません。
 
大脳の樹状突起は、コンピュータと違います。
 
文化が、彼の脳という算盤を、
使ったのでないかと。

とりわけ、メディア自身のほうが、
コンピュータやインターネットのように、
自動的に機能した可能性が、高いと、
わたしは疑います。
  
 
   コンピュータは、
   自動的に機能するメディアですが、
   写真よりも、
   その判断の手順が、わかりやすい。
 
   カメラを見ても、ほとんどの人は、
   ハードウェアのプログラムを
   理解できませんので、
   カメラが、知覚の内容と同じ物を
   記録したと、誤解します。
 
   他人の知覚の内容を、
   だれが知っているのですか。
 
   誰も知らないのに、他人の知覚の内容と、
   カメラの写した映像が、同じであると、
   どうして、判断できます。
 
   一人一人の個人が、
   自分の知覚の内容と、写真の映像が、
   同じであると、言っているだけです。
 
   同じという言葉は、
   人間の使う言葉の中で、
   最も汎用的な同音異義語であると、
   わたしには思えます。
   
 
コンピュータは、
プログラムを読み取ることが、出来ますので、
人間の知覚の内容に、依拠していないことが、
はっきりとわかります。
 
コンピュータのようなメディアの表現が、
個人の、具体的な人格や記憶の正体ですから、
メディアにない記憶が、
脳にないのは、言うまでもなく、
メディアにある個人の記憶は、
メディアがオリジナルです。
 
人格と同じように、
具体的な記憶や思考やエステティックなども。
文学にすぎません。 
 
わたしたちが、脳の機能と思ったことは、
知覚の内容を、他人に伝えるための、
コミュニケーションのメディアの表現を、
他人と共有したことによる錯覚や誤解と、
思われます。
 
共有した言葉の意味が、
人それぞれに異なる同音異義語の、
典型でした。
 
耳で聞く言葉だけでなく、目で見る映像も、
そう。 

日本国憲法や精神医学などに、
抗精神病薬を強制投与して、
ロマン主義や精神科医を、廃疾とするのが、
人類の正しい未来かも知れません。
 
 
 
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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