ミズキ 0145 生物や概念の分類と、知覚や論理法則の規則性

学名を書いて置きます。
 
自分のブログを、ミズキで検索すると、
ハナミズキやヒュウガミズキや、
サンシュユ(ミズキ科)まで、
引っ掛かって来ます。
 
学名で検索すれば、便利ですから。
 
ゴールデンウィークの新緑の頃に、咲きます。
 
散房花序とも、三出集散花序とも、
言われていますが、確定しません。
 
小学生でも、観察できるのに、
学者により、異なり、未確定であるのは、
ミズキの個体により、異なるからでしょう。
 
総状花序の系統か、それとも
集散花序の系統かは、
種(しゅ)の分類に、重要でないのかも。
 
生殖に関係ありません。
 
葉の、毛や鋸歯の有無って、
生殖に関係ないと、素人でも、わかります。
 
人間も、黒か白か、足が長いか短いか、
どうでも良いことを、分類すれば、
生殖を、左右するようになります。
 
生殖の系統は、
分類が、遺伝を決めた痕跡で、ないかと。
 
遺伝子を分類して、
確かに、この通りに生殖したと、
検証する方法を、知っていますか。
 
分類だけでなく、検証の方法も、
遺伝子だけとか。
 
生物学者は、
遺伝子を自作していないと、言います。
 
だから、勝手な遺伝子の工作を、禁じるって、
よくある話です。
 
 
   ***    *** 
 
 
   判断の枝分かれは、
   順番がありますから、
   何番目の枝分かれの識別点であるかが、
   特定できなければ、役に立ちません。

   13番目の枝分かれの識別点を、
   5番目の枝分かれで使うのは、
   無意味かも。
 
   人間の判断には、
   論理法則と言われる流行文化の
   教条のほかに、
   時間や空間と言われる基準が
   あります。
 
   時間の順番は、
   知覚しか、根拠がないことから、
   時間を逆行する方法では、
   知覚を変更できないと、
   論理法則により、禁じられています。
 
   時間は、
   生まれつきのプログラムにより、
   変更不能に知覚されて、
   流行文化の慣習により、
   時間の順番は因果関係であると、
   論理法則が説明します。
 
   生まれつきのプログラムは、
   流行文化の教条を、知りませんから、
   論理法則は、時間や空間の知覚に、
   依存しています。
 
   自然の、因果関係の規則性が、
   知覚に拠らない自然の存在の、
   論理法則による説明の意味です。
   
   知覚されなくても存在する自然と、
   知覚されなければ存在しない自然とは、
   使用目的により、便利さが違います。
   
   自然という同じ言葉を、
   共有しているだけであり、
   意味は不定であり、
   使用されるたびに、異なります。
 
   論理法則が流行文化である限り、
   目的により、
   論理法則の教条が変わるのは、
   当然です。
 
   論理法則の、
   ロマンティックな流行文化の教条が、
   いつ如何なる場合も、神様のように、
   あまねく宇宙を照らすと、考えるのは、
   天動説や地動説のように、
   古い迷信です。
 
   論理法則のような文法の類が、
   神様の光であれば、
   法治主義を謳(うた)う権力には、
   好都合です。
 
   ロマン主義は、その名の通りに、
   古代ギリシャ・ローマの、
   神話のような、流行文化の筋書が、
   自然と言われる規則性の、
   根拠であると、信仰します。
 
   中世ヨーロッパのキリスト教が、
   権力の根拠を、神様であると、
   主張したのと、同じです。
 
   自然の筋書は、神話の一種なのに、
   わたしたちには、確かに、
   自然の規則性が、知覚されます。
 
   中世ヨーロッパの一般庶民が、
   確かに、神様を知覚したのと、
   同じです。
 
   神様の照らす光の筋のように、
   ロマンティックな筋書が、
   わたしたちに知覚されます。
   科学技術の事実のようなものです。
 
   物理化学だけでなく、
   数学や論理法則などは、
   典型的な同音異義語による文法上の
   迷信です。
 
   音声による言葉だけでなく、
   影像という言葉を、知覚しながら、
   わたしたちは、
   同音異義語の使用を、自覚できません。
 
   言葉として聞こえる自然や、
   目に知覚される自然だけでなく、
   言葉や影像の規則性が、同音異義語です。
 
   万有引力の法則が、
   意味している規則性は、
   論理法則という電車に、
   同音異義語であることを、気づかれずに、
   いつも、同じ顔をして、
   乗っているだけです。
   その意味は、乗るたびに違います。
   
   論理法則といわれる流行文化の教条は、
   知覚に使用される同音異義語を、
   識別しませんから、
   ニモニック(mnemonic)のような
   語呂合わせを、
   弄(もてあそ)んでいるに、
   すぎません。
 
   善悪や美醜などの流行文化と、
   同じです。
   論理法則は、ただの文法でないかと、
   疑われています。
 
   自然や数学や科学技術などの、
   仕組みを知ることは、
   流行文化の成り立ちを
   知ることですから、語源の探索ように、
   お目出度く幸せであれば、満足します。
 
   加速器に1兆円の予算を付けるのなら、
   うちの家の引っ越しを、
   手伝ってくれと、
   政府に言っていますが、ケチです。
   
   わたしよりも、年下のくせに。
 
 
総状花序は、根もとから先へ先へと、
蕾(つぼみ)が出来て、咲いて行きます。
 
集散花序は、てっぺんに蕾が出来て、
打ち止めになり、
てっぺんの下に、脇枝が出来て、
その先端に蕾が付き、また打ち止め。
 
下へ下へと、蕾が出来て、繰り返します。
 
総状花序は、無限花序と言われ、
集散花序は、有限花序と言われます。
 
どちらも切りがなく、
元気があれば、蕾が出来続けますが、
しんどくなれば、蕾が出来なくなり、
咲かなくなります。
 
総状花序の系統か、集散花序の系統かは、
上へ伸びるように、
下から上へ、咲いて行くか、
それとも、下へ枝分かれを繰り返すように、
上から下へ、咲いて行くかの、違いです。
 
下に付く花の柄が、長く、
上に付く花の柄が、短かければ、
花の付く高さが、同じになりますので、
中心から外へ、咲いて行くか、
それとも、外から中心へ、咲いて行くかの、
違いになることも、あります。
 
互い違いに、1個ずつ、
花を付ける植物もあれば、
1ヶ所に、2本ずつ、
花の柄を、対生に付ける植物もあり、
1ヶ所に、多数の花の柄を付ける植物も
あります。
 
さらに、1ヶ所から、
複数の花の柄が、出るはずだったのに、
1本の花の柄しか、出なくなったと、
解釈される植物もあります。
 
花序の分類は、
進化や退化の、系統を意味しているのか、
それとも、ただの形態の分類なのかが、
よくわかりません。
 
同じ種でありながら、個体により、
1ヶ所から、何本の花の柄が出るかが、
異なると、
進化の系統を類推して、花序を分類すべきか、
それとも、
目の前の個体の、花房の枝分かれだけを、
仕分けすべきかが、わかりません。
 
 
   散房花序は、下から順番に、
   花や、花の柄が、上へ上へと付き、
   下から咲いて行きますから、
   総状花序の類です。
 
   花の柄が、下のほうが長く、
   上のほうが短いので、
   花の高さが、水平、もしくは、
   こんもりと丸く見えます。
 
   花序を、上から見ると、
   花は、中心から周辺に向って、
   順番に咲いて行きます。
 
   散房花序の、それぞれの花の柄が、
   また、散房花序のように、
   枝分かれしていると、
   中央から周辺にかけて、必ずしも、
   順番に咲くわけでありません。
 
   3出集散花序は、
   1ヶ所から、3本の花の柄が、出ます。
   
   何度も、枝分かれを繰り返しますから、
   周辺から中心部に向かい、
   順番に咲くと、限りませんが、
   だいたい、その傾向があります。
 
   ミズキの花序を見れば、
   枝分かれは、杓子定規の規則性でなく、
   気まぐれです。
   
   葉腋でなく、今年の若い枝の先端に、
   花序が出来ますので、目立ちます。
 
   花序の形は、縦に細長い円錐でなく、
   横に平べったい傘型に見えます。
 
   散房や散形や集散などの散は、
   もともと、繖(さん)の字で、
   傘(さん)と同じ意味ですから、
   繖が難しければ、傘を使えば良いのに、
   散を使ったことから、
   意味不明になりました。
 
   キュウリグサの
   巻繖(かんさん)花序は、
   集散花序の系統で、
   てっぺんに花が咲き、
   行き止まりになり、
   その下に、1本だけ、花の枝が出来て、
   その先端に花が咲き、
   またその下に、1本だけ、
   花の柄を出します。
 
   これを、繰り返しますので、
   上から下に、
   順番に、咲くにもかかわらず、
   サソリの尻尾が巻くように、
   根もとから先へ、
   順番に花が咲いて行くと、
   錯覚します。
 
   てっぺんが咲いたのか、
   脇枝が咲いたのかは、
   何を基準に、見究めるのでしょうか。
   サソリ型花序と総状花序の識別は、
   ナンセンス(nonsense)で
   ありませんか。
 
   もしも、そうなら、
   総状と集散を、識別する意味も、
   ありませんから、
   分類学は、何を遊んでいるのかと、
   思いたくなりますが、
   事実だけでなく、
   自然科学や科学技術などと、
   論理法則や知覚の関係が、
   わたしには、ナンセンスに見えます。
  
   科学技術を確信する知覚が、
   判断の枝分かれの、
   お遊びにすぎないと。
 
   生物や概念の分類と、
   知覚や論理法則の規則性は、
   遺伝子であろうが、なかろうが、
   トートロジー(tautology)や、
   ニモニックや、同音異義語や、
   定義などの、使い回しにより、
   耳で聞く言葉だけでなく、
   目で見る知覚の中身としての言葉と、
   流行文化の教条としての論理法則が、
   他人の検証できない自作自演を、
   他人とのコミュニケーションの、
   主たる手段にしているような・・・
 
  
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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