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オウムの死刑が、執行されると、聞きました。
彼らが犯人であると、わたしは知りません。
犯人を処罰すべきと、限りませんし、
殺された人間が立派とも、限りません。
わたしは、事情を知りません。
つまらない人間なら、殺しても良いのかと、
文句があるかも知れませんが、
軍隊や死刑があるのですから、
つまらない人間を、殺しても構わないと、
社会は合意しています。
それを、憲法に明記しろと、
安倍晋三君は、主張しているようなものです。
サリンで殺された人に、罪はないと、
言うかも知れませんが、
罪があるか、ないかを、わたしは知りません。
正当な理由のない人殺しは、いけないと、
信じるのは、たぶん宗教の一種です。
何が正当な理由かを、決めるために、
殺し合いをするのですから。
麻原君だけでなく、安倍君も、
そう言っているようなものですが、
軍隊や死刑は、金本位制のように、
無用な制度であると、わからないのは、
頭が悪い。
どのような理由があっても、
殺してはいけないと、主張する人もいます。
命の重さを、測る方法を、
わたしは知りませんが、
人の命は、地球よりも重いと、
宣(のたま)った総理大臣も、います。
人の命と、それを大切とする価値観と、
どちらが大切なのでしょうか。
人の命は、地球より重いと、考えるなら、
公務員になりたいと思うことも、
総理大臣になりたいと思うことも、
あり得ません。
科学技術だけでなく、
知覚は文学であると、
言われて来たように、
伝えられた遺伝形質の規則性を
知覚の中身として、表現する無意識と、
言葉やビデオなどの、
コミュニケーションのための
メディアとして、表現する意識とを、
科学技術と文学の違いであると、
仕分けするのは、
切りがないような気がします。
自然は無意識であり、
人為は意識であると、
医者や法律家のように、
ロマンティックに分類するのは、
邪魔臭い。
どうせ、死にますから。
古くなった機械が、壊れるように、
命を大切にする理由もないと、
植松君や麻原君は、考えたのかも。
サリンを作ったり、
19人を刺し殺したり、
しんどいしんどいと、ぼやいたりって、
生まれつきに、頭が悪いだけかも。
ヒトラーは、
第二次世界大戦を惹き起こして、
5000万人ほどを、殺しましたから、
麻原君や宅間君や植松君は、
可愛いものです。
ほんとうに有罪でしょうか。
小野田寛郎氏は、どうです。
戦争が終わったのに、降伏を拒否して、
殺し続けました。
マスコミは、皆、彼を褒めましたから、
麻原君にも、
褒められる資格が、ありませんか。
包丁やナイフを、死刑にするのは、
滑稽ですが、
彼らが器物でなかったのは、確かです。
親や社会が、意識して、
彼らを作ったのでしょうか、
それとも、
無意識に作ったのでしょうか。
機械なのか、自然なのか、
仕分けが面倒くさい。
理由にかかわらずに、
殺しても良いとか、悪いとかでなく、
機械は壊れても、死にませんから、
死んだり殺したりと、
余計なことを考えなくて、済みます。
年を取ると、面倒くさいことが、
嫌(いや)になり、
生んだり、産ませたり、
死んだり、殺したり、殺されたりを、
憲法で禁止したら、どうかと、
言いたくなります。
身体は消耗品ですから、
だんだんと壊れて、
痛く苦しくなります。
すると、壊れても、痛みや苦しみを、
感じなくなりますから、あほです。
そうして、人は、
だんだんと死んで行きます。
眠るようにと、表現しますが、
あほになって死ぬのが、正しい。
みんな、そうです。
55才を超えると、
実用になりませんから、
生きないほうが、よろしい。
司法やマスコミなどの、他人が、
麻原は犯人であると、言いますが、
わたし自身が、証拠を調べて、
事実の真偽や、法の適用などを、
自分に対して、証明したのでないのに、
わたしが、他人を懲罰したり、
他人の諍(いさか)いに、
同調したり、付和雷同したりすることは、
あり得ません。
他人の作った法律を、使用しないで、
自分の作った法律を、実行します。
自分の規則でなければ、
他人の規則に、賛成しません。
わたしが判断できる量は、知れていますので、
世間で施行される法律の、ほぼ全部は、
わたしの役に立ちません。
わたしは、同意していないのに、
権力による暴力に、従わされているだけです。
暴力に、威嚇されなければ、
権力や他人の判断に、
盲目的に追従(ついしょう)する理由は、
ありません。
わたしは、オウムが人を殺したとも、
サリンを作ったとも、使ったとも、
知りません。
噂(うわさ)を、聞いているだけです。
知らないことを、噂により、判断しません。
サリンを研究したことが、ないのに、
判断できるわけが、ない。
捜査当局に、判断を委任したこともなく
当局の言い草を、信じる理由は、
まったくありません。
嘘か本当かが、わからないことを、
なぜ、信じますか。
わたし自身が、
何も判断していないのに、
見ず知らずの他人の喧嘩の、
いずれか一方の尻馬に乗ったり、
お先棒を担いだりすることは、
ありません。
わたしは何一つ、
司法に、権限を委任していませんし、
国家と、いかなる契約も、
自由に結んでいません。
権力のすることは、
他人の野合や無法に、すぎません。
やくざと同じです。
人は皆、自分の裁量において、
他人を処罰すべきであり、
処罰の責任は、自分にあります。
他人に危害を加えることを、
他人に委託すべきで、ありません。
わたしは、だれとも、
集団安全保障を、結びません。
そもそも、わたしは勧善懲悪の価値観に、
賛成しません。
善悪や美醜の価値は、女の子の趣味です。
アイスクリームやチョコレートの、
ブランドみたいなものです。
理由もなく、他人を殺しても良いと、
思っていません。
善悪に、何の根拠もありませんから、
殺人の理由になりません。
理由もなく、他人を殺してはいけないとも、
思っていません。
すべての人は、55才頃になると、
自動的に殺されたほうが、便利と、
思っています。
経験的に、そう感じます。
脳みそのスペックが、
知的障害レベルに下がり、
身体がしんどくなりますので、
研修医の女の子のように、哀れに生きたいと、
思わなくなります。
身辺整理も億劫で、かなわん。
どうせ、死ぬのですから、
比較的に元気なほうが、
食べ散らかした人生の、
後始末も楽賃です。
すべての人が平等であれば、
諍(いさか)いも少なくて、良い。
サリンを作るよりも、
人間の肉を、衛生的に、
食用とする研究のほうが、省エネです。
牛や豚を飼育して、食べるよりも、
わかりやすい。
そう考えても、
それを間違いとする理由は、
ただの価値にすぎませんから、
人それぞれの趣味と、変わりありません。
みんなが、そう思っていないだけが、
そうでないとする理由ですから、
事実には、なんの影響も及ぼしません。
かえって、危険です。
事実は、価値により決まると、
正しく理解したほうが、良い。
嘘をついていると、
必ず、嘘が悪用されます。
ソ連建国のロシア革命や、
2度の世界大戦や、ヒトラーなどが、
支持されたのは、それです。
事実についての、ロマン主義の嘘が、
悪用されました。
いまに、ガソリン車は、骨董品になり、
お爺ちゃんの若い頃は、石油を焚いて、
車輪を回していたと、
孫たちに教える時代が、来るように、
よぼよぼになるまで、人間を使い、
肉を食べずに、死体を燃やして、
骨を燃やさずに、拝んでいたと、
教えなければならないようになります。
教えないほうが、
嘘をつくには簡単かも。
なんで、
自分たちの身体を、直接に食べずに、
牛や豚を、
間接的に食べるのでしょうか。
食べるために殺すのでなければ、
衛生上の問題しか、ありませんから、
健康で合理的な食生活を、
研究しなければいけないのは、
当然です。
宗教上の理由のような、
趣味の価値によらなければ、
事実の間違いを、指摘できないのは、
危険です。
事実は、価値の産物にすぎないと、
正しく教えたほうが、良い。
当然、事実を根拠にした価値は、
すべて、見直されます。
なんで、90才を超えるまで、
自分や他人を、こき使うのでしょうか。
55才くらいなら、
まだ、富士山にも登れますから、
元気なうちに、引退したほうが、
社会に、艶(つや)が出ます。
55才になれば、肉屋に出頭して、
ギロチンで首を刎ねてもらうのが、
良い制度です。
そんなことに、なりかねません。
55才なれば、働くな、引退しろと、
言う代わりに、
肉屋に出頭しろと。
わたしは、良いとか悪いとかを、
あまり気にしませんので、
そうでなければいけないと、
思っていませんが、
そのほうが、簡潔で美しい。
美を求める人が、少なくありません。
ロマン主義のように、危険です。
事実は価値により作られることを、
しっかりと教えたほうが良い。
科学技術の成り立つ判断の手順を、
理解できなければ、
学校教育の意味がないのでないかと。
科学技術立国の危険性を、
少しも教えないロマン主義の政策を、
改めたほうが良い。
何を、どうしようと、構いませんが、
最大の問題は、規則性です。
わたしたちが知覚するのは、
規則性であると、思われますが、
規則性の根拠が、不明です。
論理法則と言われる規則性の
ことですが、
知覚が、判断の根拠であることは、
間違いありません。
麻原君や植松君などを、
精神病だから、処罰できないと、
主張する人がいますが、
癲癇(てんかん)や鬱病などでなく、
精神疾患の中でも、
抗精神病薬の投与を、治療と称する種類の、
統合失調症や妄想性障害などであるなら、
精神病は、健常な人に、
抗精神病薬を強制的に投与して、
不可逆的に廃疾となった場合の、
抗精神病薬の中毒症状しか、
あり得ないことを、
法律家は、知って置くべきです。
精神病は、100%、医原病です。
したがって、
精神病だから、責任能力がないのでなく、
精神病だから、真犯人は精神科医であると、
国民は考えなければいけません。
植松君は、それに相当するか否かが、
問題になるでしょう。
精神科医のうちの、
だれを刑務所に入れるべきかが、
議論されなければいけません。
裁判では、
そのための、事実の審理が必要です。
弁護士に、
それだけの理解能力があるか否かを、
わたしは知りません。
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