【Matthäuspassion】 マタイ受難曲
合唱 : Thomanerchor
(トーマス教会少年合唱団)
*** ***
Nr.3 Choral
Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen,
Dass man ein solch scharf Urteil hat gesprochen?
Was ist die Schuld, in was für Missetaten
Bist du geraten?
Nr.4a Rezitativo
Da versammleten sich die Hohenpriester
und Schriftgelehrten
und die Ältesten im Volk
in dem Palast des Hohenpriesters,
der da hieß Kaiphas,
und hielten Rat,
wie sie Jesum mit Listen griffen und töteten.
Sie sprachen aber:
Nr.4b Chori
Ja nicht auf das Fest,
auf dass nicht ein Aufruhr werde im Volk.
Nr.4c Rezitativo
Da nun Jesus war zu Bethanien,
im Hause Simonis des Aussätzigen,
trat zu ihm ein Weib,
die hatte ein Glas mit köstlichem Wasser
und goss es auf sein Haupt,
da er zu Tische saß.
Da das seine Jünger sahen,
wurden sie unwillig und sprachen:
Nr.4d Coro
Wozu dienet dieser Unrat?
Dieses Wasser hie
mögen teuer verkauft und den Armen gegeben werden.
日本語訳は、たくさん検索できます。
BWV244やMatthäuspassionに、
香油や弟子やイエスなどと、
ドイツ語の歌詞の単語を、
組み合わせれば…
ここはどう?
このビデオは、説明するまでもなく、
もの凄く上手(うま)い演奏ですが、
テノール歌手の名前を、知りません。
ビデオに書いてなかったので、
面倒臭くて…
同じ元ネタのビデオが、
たぶん、Youtubeに、一杯ありますから、
テノール歌手の名前を、記してあるのが、
見つかるかも知れません。
合唱団は、
Thomanerchor(トーマス教会少年合唱団)。
作曲者のバッハも、
この教会の、この合唱団を指揮して、
マタイ受難曲を発表しましたから、
本家本元の演奏です。
オーケストラは、Gewandhausorchester
(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)
と、書いてありました。
歌詞も、新約聖書の一節ですから、
プラトンの対話篇のような、味わいです。
性別違和を訴えたり、
性転換を実行したりする人たちが、
そのような味わいを、好む人でしたら、
良かったのですが、
人生の、流行の複雑な組み合わせを、
主張する人のほうが、多いかも知れません。
イソップのような喩え話と、
ミュージカルのような、掛け合いと、
談合のような論理主義が、
インドヨーロッパ文化の、
源流と思いますが…
歌って笑って、こじつけて殺します。
論理は、これとあれを、くっつけたり、
共通であるとして、
枝分かれをさせたりして、
物事(ものごと)を分類することです。
くっつけて、組み合わせます。
マルペケの判断や言葉を、
くっつけるだけでなく、
知覚の中身が、
そのようにくっつけられて、
分類されたものですので、
物や物事を、知ることや、
物と物をくっつけることが、
そもそも、論理なの。
科学技術と、同じでしょう?
こじつけて、因縁をつけます。
くっつけたり、離したり、
枝分かれさせたりして、分類することを、
定義すると、言いますが、
どのように定義するかは、自由であると、
思いますか、それとも、
定義の仕方は、最初から決まっていると、
思いますか。
生まれた後の経験に、責任を持つのか、
それとも、
生まれつきの変更不能な素質に、
自由はない、とするのかは、
なかなか、厄介です。
精神医学では、
精神の病気や障害の、原因を、
生まれつきの素質と、生まれた後の経験が、
半々である、と言って置けば、
無難かも知れません。
習慣になれば、自動機械のように、
勝手に機能しますから、
生まれた後の、自由な選択や経験も、
次々に、変更不能になって行きます。
だから、生物は死にますが、
世代交代をして、生き延びますから、
いよいよ、伝えられるのは、
変更不能な証拠の、物ばかり。
個体を、単位にした考え方って、
無理と思いませんか。
自由や責任は、個体にあるのでなく、
社会の流行文化や殺し合いにあると、
言えば、笑われるでしょう。
キリスト教を賛美する音楽って、
日本の宗教よりも、桁違いに、
ヨーロッパで、よく発達しましたが、
うちの家は、修験道の本家本元なんです。
どうしよう?
修験道なんか、何も考えないあほです。
そのほうが良いと、言います。
何も考えないで、
殺したり嬲(なぶ)ったりします。
社会の底辺の、
論理能力のない人たちのほうが、
残虐で嘘つきで付和雷同して、
どうしようもない化学物質のように、
純真かも知れません。
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