ホザキナナカマド 1546 数や事実の、架空の世界

七竈(ななかまど)の散房花序が、
円錐花序になったようなものですが、
北日本の山地や、中国の東北地方や、
シベリアなどにも、自生しています。
 
日本の公園に、こんなに奇麗に咲いていると、
中国華中や華南の、
珍珠梅(ちんしばい)と同じでないかと、
疑いたくなります。
 
日本では、庭七竈(にわななかまど)と
言われています。
 
そうすると、葉柄や葉裏などに、
毛が生えているとか、生えていないとかって、
インターネットのブログに、載っているのが、
普通です。
 
どのような植物でも、
微細な部分を見て、似ている種類を識別して、
種(しゅ)を同定をするのは、当たり前です。
 
でも、毛の有無とか、
鋸歯(きょし)の違いとかって、
個体変異や、産地による違いに、
すぎないかも知れません。
 
種(しゅ)の違いに、あまり影響しないかも、
知れないの。
 
生物の種類が違うって、
ようするに、生殖が出来ないことです。
簡単に、生殖をして、雑種が出来るのなら、
同じ種(しゅ)と、言われます。
 
人間の、
髪がふさふさの女性と、禿(は)げ頭の男性は、
容易に生殖ができますので、
どちらも、ホモサピエンスです。
髪の有無は、識別点になりません。
 
禿(はげ)の猿を、人間と言い、
毛むくじゃらの女性を、猿と言うのは、
憲法違反です。
 
ほんとうに、その毛の有無が、
生殖の可否を示している、という証拠がなければ、
他人のブログの、植物の種類の識別を、
安易に信じるわけに、行きません。
 
わたしは、
息抜きのために、写真を撮っていますから、
安易に信じますが、
性転換は、息抜きができれば、
精神医療の目的を、達成できるのかしら。
 
GID(性同一性障害)の人が、
安易に生殖を否定すると、
ホモサピエンスでないと、
言われるかも知れません。
 
毛が、3本、足りなかったら、どうしよう?
 
       ***          ***
 
無いものを、在ると、想定すると、
虚数のように、とても便利です。
 
わたしたちの、目や耳や皮膚などの、知覚は、
事実と言われる架空の世界を、
自動的に作り出してくれます。
 
そのような遺伝的な素質を、文化的に選択して、
犬の豚のように、品種改良をして来たからです。
 
四川の黒豚や、ドイツのダックスフンドなどは、
人間のお医者さんと同じように、
文化的に選択された遺伝的な素質ですが、
遺伝子工学のような、洒落た技術は、
必要ありませんでした。
 
流行文化に好まれた素質は、
よく繁殖をさせられたのに、
気に入られなかった素質は、食べられて、
種付(たねつけ)を、
させて貰(もら)えませんでした。
 
     言葉のように、
     コミュニケーションのための道具が、
     無数の単語や意味に、分化すると、
     一つ一つの枝分かれが、
     目で見て、耳で聞き、
     手で触って知られるように、
     確かに存在するものとして、
     知覚されます。
 
     コミュニケーションって、
     みんなと一緒のことを、
     しない奴や出来ない奴を、
     殺して食べるための、
     健全な生命活動の、
     一部のようなものですけれど、
     第二次世界大戦の頃の、
     ニューギニアの石器時代の人たちは、
     他人の命を、手に入れるために、
     生きている奴を食べると、
     言っていました。
 
     自分と違う奴を食べて、
     一緒になりますので、
     自分と違う奴が、
     自分の体の一部になります。
 
     心と言われるような、無いものが、
     自分の体と言われるような、
     在る物として、認識されます。
     
     生命活動は、
     コミュニケーションの中身や、
     権力などの、無いものを、
     体のように、在る物として、
     表現することであると、言われます。
     
   
     無いものを加工して、
     在る物を作り出すための、
     体は、工場のようなものですが、
     無いものを、在る物として、
     認識する仕組みを、知覚と言います。
     事実を知覚します。
 
     普通は、
     無いものを、在る物として、
     想定するなどと、
     回りくどいことを言わずに、
     単に、事実が在ると、言います。
     
     この目で、実際に見て、
     この手で、触ったので、
     確かに間違いないと、言います。
     同じ意味です。
     
くっつけるって、定義ですから、
一つの物事(ものごと)を、
別の物事として、認識する、と言っても、
構いません。
 
自分一人で行なえば、
自作自演と言われるだけでなく、
統合失調症や認知障害などと、
言われるかも知れません。
 
みんなと一緒のことを、平凡にやっていれば、
健常ですけれど、やっている中身は、
みんなのすることのほうが、
自分一人ですることよりも、
遥かに、妄想や幻覚や支離滅裂であるのは、
言うまでもありません。
 
みんなで考えたほうが、賢く、
自分一人で、考えても、
今までの自分を、変更することが出来ないのと、
同じ意味です。
 
統合失調症の症状は、創造性に乏しいので、
認知障害や知的障害などと、
言われるかも知れません。
 
犯罪と言われて、首吊りにされることも、
あります。
犯罪の過半数は、知能の低いせいですので、
わたしたちは、
生まれつきに知能の低い人たちを、殺す方法として、
犯罪や精神病などを、発明したようなものです。
 
ニューギニアのように、他人のお肉を食べたほうが、
文化的かも知れません。
 
     犯罪者や、精神の病気の人たちに、
     みんなと一緒のことが、
     出来ないのは、
     脳の神経や化学物質の、
     つながり方やくっつき方が、すぐに、
     変更不能になってしまうからです。
 
     新しい神経細胞を作るための、
     幹細胞の出来かたが、
     遅いのかも知れません。
 
     化学物質のくっつき方を、変えるための、
     酵素(こうそ)の生産に、
     不具合があるのかも、知れません。
 
     化学物質とくっつくための、
     神経の受容体の、形や数や位置を、
     変更できないのかも、知れません。
     
     何が悪いのかは、よくわかりませんが、
     頭の悪い人って、
     だいたい、フィードバックの回路が、
     うまく機能していません。
 
     運動の調節能力や知覚能力を、
     計測すれば、
     頭の悪いのが、よくわかります。
     いわゆる知性は、ただの趣味ですから、
     あまり関係がありません。
 
     糖尿病のように、
     だんだんと悪くなるのは、
     困ったものですが、
     いつも、丁度良いところを、探りながら、
     こまめに調節して、実行する機能が、
     イカレるのは、
     ドーパミンの過不足によるもの
     なのかしら。
 
     本当の自分や個性を、主張するように、
     辛坊が足りなくなるだけでなく、
     エステティックや論理のように、
     生まれつきに変更不能な価値を、
     強要する文化にも、
     責任があるような、気がしてなりません。
 
     顔や体の見てくれや、論理って、
     不治の体の病気と同じように、
     人生から、希望を奪い取ります。
 
     ポルポトは、
     お医者さんを、皆殺しにしましたが、
     どうして、美男美女に、
     手をつけなかったのかしら。
 
     面食いで、なかったのかなあ…
     



 
 
 
 
 
 
 
 

精神医療の廃止とコンピュータ

進化論や精神医学などの、 ロマン主義による社会や心の学説を否定して、 精神医療と精神科と精神病院の廃止を、 主張します。

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