七竈(ななかまど)の散房花序が、
円錐花序になったようなものですが、
北日本の山地や、中国の東北地方や、
シベリアなどにも、自生しています。
日本の公園に、こんなに奇麗に咲いていると、
中国華中や華南の、
珍珠梅(ちんしばい)と同じでないかと、
疑いたくなります。
日本では、庭七竈(にわななかまど)と
言われています。
そうすると、葉柄や葉裏などに、
毛が生えているとか、生えていないとかって、
インターネットのブログに、載っているのが、
普通です。
どのような植物でも、
微細な部分を見て、似ている種類を識別して、
種(しゅ)を同定をするのは、当たり前です。
でも、毛の有無とか、
鋸歯(きょし)の違いとかって、
個体変異や、産地による違いに、
すぎないかも知れません。
種(しゅ)の違いに、あまり影響しないかも、
知れないの。
生物の種類が違うって、
ようするに、生殖が出来ないことです。
簡単に、生殖をして、雑種が出来るのなら、
同じ種(しゅ)と、言われます。
人間の、
髪がふさふさの女性と、禿(は)げ頭の男性は、
容易に生殖ができますので、
どちらも、ホモサピエンスです。
髪の有無は、識別点になりません。
禿(はげ)の猿を、人間と言い、
毛むくじゃらの女性を、猿と言うのは、
憲法違反です。
ほんとうに、その毛の有無が、
生殖の可否を示している、という証拠がなければ、
他人のブログの、植物の種類の識別を、
安易に信じるわけに、行きません。
わたしは、
息抜きのために、写真を撮っていますから、
安易に信じますが、
性転換は、息抜きができれば、
精神医療の目的を、達成できるのかしら。
GID(性同一性障害)の人が、
安易に生殖を否定すると、
ホモサピエンスでないと、
言われるかも知れません。
毛が、3本、足りなかったら、どうしよう?
*** ***
無いものを、在ると、想定すると、
虚数のように、とても便利です。
わたしたちの、目や耳や皮膚などの、知覚は、
事実と言われる架空の世界を、
自動的に作り出してくれます。
そのような遺伝的な素質を、文化的に選択して、
犬の豚のように、品種改良をして来たからです。
四川の黒豚や、ドイツのダックスフンドなどは、
人間のお医者さんと同じように、
文化的に選択された遺伝的な素質ですが、
遺伝子工学のような、洒落た技術は、
必要ありませんでした。
流行文化に好まれた素質は、
よく繁殖をさせられたのに、
気に入られなかった素質は、食べられて、
種付(たねつけ)を、
させて貰(もら)えませんでした。
言葉のように、
コミュニケーションのための道具が、
無数の単語や意味に、分化すると、
一つ一つの枝分かれが、
目で見て、耳で聞き、
手で触って知られるように、
確かに存在するものとして、
知覚されます。
コミュニケーションって、
みんなと一緒のことを、
しない奴や出来ない奴を、
殺して食べるための、
健全な生命活動の、
一部のようなものですけれど、
第二次世界大戦の頃の、
ニューギニアの石器時代の人たちは、
他人の命を、手に入れるために、
生きている奴を食べると、
言っていました。
自分と違う奴を食べて、
一緒になりますので、
自分と違う奴が、
自分の体の一部になります。
心と言われるような、無いものが、
自分の体と言われるような、
在る物として、認識されます。
生命活動は、
コミュニケーションの中身や、
権力などの、無いものを、
体のように、在る物として、
表現することであると、言われます。
無いものを加工して、
在る物を作り出すための、
体は、工場のようなものですが、
無いものを、在る物として、
認識する仕組みを、知覚と言います。
事実を知覚します。
普通は、
無いものを、在る物として、
想定するなどと、
回りくどいことを言わずに、
単に、事実が在ると、言います。
この目で、実際に見て、
この手で、触ったので、
確かに間違いないと、言います。
同じ意味です。
くっつけるって、定義ですから、
一つの物事(ものごと)を、
別の物事として、認識する、と言っても、
構いません。
自分一人で行なえば、
自作自演と言われるだけでなく、
統合失調症や認知障害などと、
言われるかも知れません。
みんなと一緒のことを、平凡にやっていれば、
健常ですけれど、やっている中身は、
みんなのすることのほうが、
自分一人ですることよりも、
遥かに、妄想や幻覚や支離滅裂であるのは、
言うまでもありません。
みんなで考えたほうが、賢く、
自分一人で、考えても、
今までの自分を、変更することが出来ないのと、
同じ意味です。
統合失調症の症状は、創造性に乏しいので、
認知障害や知的障害などと、
言われるかも知れません。
犯罪と言われて、首吊りにされることも、
あります。
犯罪の過半数は、知能の低いせいですので、
わたしたちは、
生まれつきに知能の低い人たちを、殺す方法として、
犯罪や精神病などを、発明したようなものです。
ニューギニアのように、他人のお肉を食べたほうが、
文化的かも知れません。
犯罪者や、精神の病気の人たちに、
みんなと一緒のことが、
出来ないのは、
脳の神経や化学物質の、
つながり方やくっつき方が、すぐに、
変更不能になってしまうからです。
新しい神経細胞を作るための、
幹細胞の出来かたが、
遅いのかも知れません。
化学物質のくっつき方を、変えるための、
酵素(こうそ)の生産に、
不具合があるのかも、知れません。
化学物質とくっつくための、
神経の受容体の、形や数や位置を、
変更できないのかも、知れません。
何が悪いのかは、よくわかりませんが、
頭の悪い人って、
だいたい、フィードバックの回路が、
うまく機能していません。
運動の調節能力や知覚能力を、
計測すれば、
頭の悪いのが、よくわかります。
いわゆる知性は、ただの趣味ですから、
あまり関係がありません。
糖尿病のように、
だんだんと悪くなるのは、
困ったものですが、
いつも、丁度良いところを、探りながら、
こまめに調節して、実行する機能が、
イカレるのは、
ドーパミンの過不足によるもの
なのかしら。
本当の自分や個性を、主張するように、
辛坊が足りなくなるだけでなく、
エステティックや論理のように、
生まれつきに変更不能な価値を、
強要する文化にも、
責任があるような、気がしてなりません。
顔や体の見てくれや、論理って、
不治の体の病気と同じように、
人生から、希望を奪い取ります。
ポルポトは、
お医者さんを、皆殺しにしましたが、
どうして、美男美女に、
手をつけなかったのかしら。
面食いで、なかったのかなあ…
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