お揃(そろ)いの、
靴(くつ)とTシャツとチューリップに、
合(あ)わせたわけでないのですが…
偶然(ぐうぜん)です。
チューリップを撮(と)ろうと、
カメラを探(さが)しているうちに、
先回(さきまわ)りをされて、
花壇(かだん)の傍(そば)に、座(すわ)られました。
仕方(しかた)ありません。
ずーっと前に、「心は自由に変更できる」 と、言ったら、
もの凄く怒られました。
「変更できない心が、一杯あるんじゃ、あほばかぼけ」 と、
笑われました。
心は、変更できなくなると、無意識になり、
心であるって、気づかなくなります。
体や物は、変更不能な心が集まって、出来ています。
ライプニッツという微積分の人は、
石ころにも、ちょっとぐらいは、心がある、と言いました。
日常言語や文学は、言葉遣いがややこしく、
綱渡りや精神病みたいに、芸術的です。
統合失調症の人の文章を、読み取るには、
寝起きの、あほばかぼけの時しか、不可能かも知れません。
夢見心地(ゆめみごこち)のあほですと、とても創造的になれます。
知能検査を受けると、確実に知的障害ですから、
芸術の先生の知能指数を、測ってあげて下さい。
知的障害でしたら、合格です。
物体は、無意識の心なの。
アリストテレスという人は、
「優れた人間は、意識をしなくても、
優れたことしか出来ない」 と、言いました。
物理化学は、
アリストテレスの自然学を継承していますので、
物体のエステティックと、運動や変化と、
エネルギーとを、取り扱います。
エネルギーって、物体の能力ですけれど、
人間の認識する価値を、言っています。
判断ですから、数量として表記すれば、便利です。
物を数える時に、指を使いますけれど、
手の指は、10本しかないので、十進法が便利です。
2進法は、マルペケ式ですけれど、
手の指を使い、2進法で行く方法を、
中学校で習いませんでした?
2進法と10進法は、表記が異なるだけで、同じ意味です。
マルペケ式の判断と、物を数えるのとは、同じなの。
数量は、マルペケ式の判断を、何度も組み合わせます。
特定のことに注目して、
そうであるのと、そうでないのとの、どちらであるかを、
判断します。
何に注目するかを、次々に変更して、
判断の結果を書き留めれば、数量の世界になります。
どのように注目点を変更するかって、
文化的に、みんなの仕来(しきた)りがあります。
プログラムと言い、
みんなが同じ文化的なプログラムを使えば、
注目点の変更の仕方が、誰も彼も、同じようになります。
何に注目すべきであるかを、価値と言います。
文化的なプログラムには、
たくさんの具体的な価値が、羅列されていますので、
価値観と言います。
みんなの価値観の通りに、実際に目で見て、耳で聞き、
手で触って知ることのできる事実が、
コンピュータのモニター画面の映像のように、
心に表れますので、わたしたちは、事実を知り、
こうであるとか、そうでないとかと、
マルペケ式で判断をして、「認識をした」 と言います。
認識される事実が変われば、判断も変わりますが、
みんなの文化的なプログラムを使っていますので、
自分一人では、そう簡単に変えられません。
みんなの価値観と言われるプログラムを使わずに、
自分勝手なプログラムを使うと、
たぶん、妄想や幻覚などと言われて、虐(いじ)められます。
みんなと一緒でなくても、みんなの望むところを、
自分だけが、抜け駆けをするように実行すると、
みんなに褒められますけれど、変人や自分勝手と言われて、
オウムのお医者さんや、性転換医療を行なうお医者さんのように、
みんなから、逸(はぐ)れて行くかも知れません。
認識を変えるだけでなく、実行することによっても、
価値を変更することができます。
個体の記憶の中にある価値と、
みんなの文化的な価値とが異なる時に、
記憶されている価値を変えるよりも、
みんなの価値を変えたほうが楽ちんと思えば、
個体は、実行という手段を使い、事実を変更して、
みんなの価値を変えようとします。
事実って、
みんなの文化的な価値観というプログラムでなければ、
事実でなく、妄想や幻覚などと言われて、
精神病院にぶち込まれますけれど、
みんなの文化的なプログラムを変えれば、
みんなの事実を変更したことになります。
自分一人で変更しても許されるのは、
プライベートな部分だけですから、
大部分の、
みんなに共通の価値観と言われる文化的なプログラムに、
手をつけるには、みんなの許可が必要です。
勝手にぶち壊して、変更すると、
怒られて、牢屋に入れられます。
上手(うま)く事実を変更できれば、認識も変わります。
溝(みぞ)を掘れば、水が流れますから、
科学技術の要領と、同じです。
実行して、物体が変化するのは、
みんなの事実というプログラムを、部分的に変えたので、
認識が変わった、という意味です。
賢い人は、実行をしなくても、事実の認識を変更できますが、
脳の神経の繋がり方や、化学物質のくっつき方を変えるのは、
脳味噌が、蛸(たこ)みたいに、柔らかくなければいけません。
石ころのように固くなっていれば、無理です。
たいていは、生まれる前に、すでに石ころになっています。
認識が変更不能になれば、心の中身が物体になりますので、
物体を変更するには、実行のほうが有力です。
認識による事実の変更にしても、実行による事実の変更にしても、
みんなの事実というプログラムを変更するのは、容易でありません。
個人的な変更は、たいてい、牢屋や精神科です。
認識や実行により、何が変更可能な事実であり、
変更をするために、どのような手順が必要であるかを、知るには、
石ころのように、固い物体になった心を、
よく観察して、あれこれといじくり、
みんなのやり方を見て、みんなに聞き、
よく吟味しなければいけません。
生まれる前の心や、他人の心や、みんなの事実と言われる心の、
ほとんどは、物体になっていますので、
物体をよく知らなけれはいけません。
ライプニッツが、
「石ころにも、ちょっとぐらいは、心がある」 と、言ったのは、
「わたしは、ちょっとだけ、賢い」 、という意味です。
ほんとは、物体の全部が、心で出来ています。
物体の運動や変化は、認識や実行と一致しなければ、
上手(うま)く行きませんので、
上手く行くのでしたら、数量化できます。
数量は、マルペケの判断ですから、
結果が良ければ、簡単です。
認識や実行は、具体的なマルペケの判断の、
順番や組み合わせを、表現していますから、
もちろん、価値の表現です。
判断が上手(うま)く行かないのは、
物体の運動や変化と、認識や実行とが、
一致しないので、心が苦しい、という意味です。
なんとなく、体と心の性別が、一致しないのと、
似ているでしょう?
心が苦しいことを、
わたしたちは、省略して、心と言います。
苦しくなければ、心は意識されずに、物になります。
そのことを、お釈迦さんは、
「人生は苦である」 と、言いました。
「優れた人間は、物体になる」 って、
アリストテレスは考えました。
雲や霞(かすみ)の、中国の仙人の食事や、
インドの悟りや、プラトンのイデアなどと、同じです。
物理化学と宗教は、同じことを言おうとしています。
アリストテレスの自然学も、キリスト教も、
同じ古代ギリシャの文化ですので、当たり前です。
キリスト教やイスラム教や仏教などは、
同じインドヨーロッパ系の文化ですので、
ものを考えるプログラムが、同じです。
中国人の神仙思想も、
インドの古代思想の、輸入品と言われています。
GID(性同一性障害)の原因は、
エステティックと、物理化学と、宗教である、と言うと、
カネと、セックスと、暴力でないかと、
治癒したGIDの人に、揶揄(やゆ)されました。
警察の人は、犯罪の原因を、そう言います。
GIDって、犯罪と同じなのかしら。
わたしたちの心には、
変更不能なことと、変更可能なことがあります。
変更できないことは、物体になりますが、
意識されないことも、物体になります。
脳の中では、神経や化学物質の、繋がり方やくっつき方の多くが、
生まれる前から、すでに変更不能です。
神経や化学物質という物体であることが、その表れですが、
一部は、生れた後にも、次々に変更不能になり、
一部は、生れた後にも、変更することができます。
意識されない物体を、変更するって、
コンピュータのハードウェアの記憶を書き換えるのと、
同じようなものですから、疲れます。
記憶を減量して、書き換えを少なくすると、
記憶の中身を、あっちこっちに移動させて、
やり繰りをしなければいけませんから、やはり疲れます。
神経が専門のお医者さんは、
脳味噌をよく使えば、脳味噌がよく生(は)えて来るので、
痴呆にならないと言います。
嘘つけ。
よく使い、新陳代謝を活発にしたので、
よく疲れて、早く老化して、早く痴呆になれば、どうしてくれる。
脳や体だけが、物体なのでは、ありません。
目で見て、耳で聞き、手で触って知る事実の全部は、
粒々(つぶつぶ)の物体で出来ていると、物理化学は言います。
世界の全部が、心である、という意味です。
固くなり、物体になった心です。
一般に、自由に変更できる心は、物体でないと言われますので、
影も形もありません。
わたしは、溶鉱炉で生まれましたので、
物体を見ると、エネルギーの塊(かたまり)に見えます。
太陽のように溶かして、心にすると、
力(ちから)が出て来ます。
「心は自由に変更できる」 と言うと、怒られますけれど、
あらゆる物体を溶かして、変形できるように、
みんなの事実を変更すれば、心は変わリます。
遺伝子の切り貼りや、クローンの技術を使い、
たくさんの家畜や作物を生産していますから、
脳や体を変えるには、
世代を超えた生殖が一番ですけれど、
生殖機能と体を壊すだけでは、ただのダダイズムです。
性転換をして、心が良いほうに変わる、という効果は、
今のところ、皆無です。
闇雲(やみくも)に壊すだけなので、
当たり前と言えば、当たり前ですけれど、
飴玉(あめだま)をしゃぶらせて、一時凌ぎをするのも、
やむを得ない手と言えば、手です。
そうして、だんだんと、妄想が体系的になって行くのは、
統合失調症と同じ道筋(みちすじ)ですけれど、
性転換をしないで、放置するほうが、
体の負担が少なく、良い結果になリます。
GID(性同一性障害)の人が、
性別のせいで、心が苦しい、と確信するのは、
お医者さんの、保身のための嘘を、
なぞっているようなものです。
なんで、お医者さんの精神障害を、
お医者さんが、自分で治そうとして、
患者さんの体を、壊さなければいけないのかしら。
性転換医療って、
オウムのお医者さんの、イカレた心を治さなければ、
どうしようもないようなものですけれど、
オウムのお医者さんは、
精神科を受診しませんでしたから、
牢屋にぶち込んであげなければ、仕方ありませんでした。
性転換医療を行なっているお医者さんって、
昔の赤軍派の人たちや、三島由紀夫さんや、
パリのオランダ人の女子大生を食べた人や、
逆噴射の機長さんなどに、似ています。
事前に精神病院に入れてあげる手段がありませんから、
やってしまってから、
牢屋と精神病院の、どちらにするかを、鑑定します。
もう、やってしまっているのに、
どちらにもならないのは、欧米の流行があるからです。
あっちは、同性愛差別の文化がありましたから、
日本の部落差別をなくした頃のように、
羹(あつもの)に懲りて鱠(なます)を吹く状況です。
なんで、同性愛差別のない日本が、
欧米の猿真似をしなければいけないのかって、
黒船と原爆に負ければ、
鹿鳴館や日本国憲法も、致(いた)し方がなかったのと、
似たようなものです。
生物って、みんなから逸(はぐ)れると、生きて行けません。
シマウマも、みんなと一緒に逃げなければ、
ライオンに食べられます。
生れたばかりのシマウマは、
群れの中に匿(かくま)われていても、うまく走れませんから、
自動的に食べられそうなものです。
群れの端っこのほうに、
逸(はぐ)れ者の精神障害者や犯罪人のようなシマウマばかりが、
弾(はじ)き飛ばされています。
みんなと一緒のことの出来ない奴から順番に、
ライオンに食べられます。
群れの真ん中のほうの、生まれたての赤ちゃんは、
走って逃げなくても、構いません。
端っこのほうの奴が、走って逃げているだけなの。
みんなと違う動きや、違う体の見かけの奴は、
群れの端っこのほうにしか、入れて貰えません。
病気になれば、そうなりますけれど、
最初から、顔や体の見てくれの、
エステティックな形が違うだけでも、そうなります。
みんなと違う奴を見分けるための、脳の機能を、感情と言い、
みんなと一緒でない奴を、除(の)け者にして、間引きます。
みんなと一緒のことをする機能と、間引いて殺す機能は、
同じですから、感情って、生殖機能です。
みんなと一緒のことをするのは、生殖と同じでしょう?
知性は、感情の下請けをしていますから、
人間は、哺乳類の感情を、ほとんど丸ごと、受け継いでいます。
GID(性同一性障害)の人は、
心の生殖機能がおかしくなりますので、
鬱病が基礎にある、と言うお医者さんもいますけれど、
実際には、GIDの性的パートナーになる人や、
性転換医療を行なうお医者さんや、
性転換を支援する人などに、鬱病が多く、
GIDの御本人には、さほど多くありません。
生殖って、一人でするのでなく、相手がいるように、
GIDの病気も、御本人の病気でなく、人間との関係の病気なの。
性転換医療を行なうお医者さんと、GIDの人の関係に、
病気があります。
フランス革命の個人主義では、人と人の関係の病気を治せません。
それどころか、GIDのように、
お医者さんとの患者さんとの関係が、病気を作ってしまいます。
それを、じーっと見ていると、
性転換医療を行なうお医者さんに、怒られるので、
わたしは、噛み付かれないように、用心しています。
0コメント