百合(ゆり)の木って、アメリカの背の高い木を、
公園の木や、街路樹として、輸入したものです。
下から撮(と)り上げても、花の様子が、よく見えないので、
近くに小高い丘があれば、好都合です。
人は、たくさんの物事(ものごと)に、共通点を見つけ出して、
たぶん未来にも、この共通点が現れるだろう、と予想します。
共通点には、条件があります。
これこれならば、これこれの間に、これこれの共通点があります。
条件に適(かな)えば、未来にも、同じ共通点が現れます。
人間の見ている事実は、
さまざまな条件によって抽出された共通点を組み合わせて、
構成されています。
人間は、かつて抽出したことのある共通点しか、認識できません。
ほとんどは、文化と言われる共通点ですので、
今、認識している張本人の個人が、抽出したものでありません。
人間は、共通点しか、認識できないとするなら、
これとあれとの、共通点を抽出して、未来を予想したところ、
その通りに抽出された共通点が、未来にも現れたので、
これこれの条件ならば、これこれの共通点が現れることを、
自然の法則とするのは、
いかにも技術者が得意になりそうな、形而上学です。
昔は錬金術師と言えば、悪魔の手先のようでしたが、
うちの先祖は、だいたい溶鉱炉が好きでした。
共通点には、すべての物事(ものごと)に共通のものもあれば、
一部の物事に共通のものもあります。
いつでも現れる共通点もあれば、
これこれの条件でしか現れない共通点もあります。
すべての物事に、いつでも現れる共通点を、
強いと、仮に表現しておきます。
一部の物事に、限られた条件のもとでしか現れない共通点を、
弱いと表現します。
最も強い共通点は、空間や時間のような、無条件の定義です。
比較的に強い共通点は、文化と言われるかも知れません。
弱い共通点は、
個人の経験の中の、神経質な条件のもとでの共通点ですので、
未来や、他人の経験には、現れないかも知れません。
人間は、様々な共通点の組み合わせを、事実として認識します。
共通点として抽出されたことの無いものは、認識できません。
人間は、認識の対象に、文化的な規格を適用して、
事実を認識します。
特定の共通点を抽出する様々な要領が、文化的な規格ですから、
事実は、強弱の様々な共通点によって、成り立っています。
認識の対象は、文化的な規格が適用される以前の、
無意識の情報です。
動物の多くは、感覚器官から入力された刺激情報に対して、
無意識の自動機械のように反応します。
人間の機能の多くも、
白血球のように無意識であるにもかかわらず、
身内と異物の違いを学習して、識別します。
無意識に処理される情報に、他の個体との共通の文化が適用されて、
二次的に編集された虚像を、
新ためて認識の対象であるかのように再認識すれば、
意識があると言い、
再認識の対象とされた虚像を、自我や事実と言います。
自我や事実は、
さまざまに抽出された共通点のみによって、成り立っています。
技術者が実験を繰り返して得られた知見により、
未来を予測しますと、その通りのことが起こりますので、
人間は、鉄を作り、
船や車や超高層ビルやコンピュータや宇宙船を作り、
抗生物質を作り、外科手術を行ない、
衣服や家や下水道などを作りました。
これを、事実が確かである証拠と、人間は確信します。
事実の成り立つ仕組みを知っていましたら、
技術は、論理的な定義を、同等の定義に変形する作業に似ていると、
感じられます。
記号や数字や言葉による論理式を扱うように、
溝を掘り、水を流したに過ぎません。
認識された事実は、
自然という名前であろうが、土や水という物体であろうが、
記号と同じなの。
すでに共通点として定義されて抽出されたものです。
人間は、記号式や数式や文章を変形するように、
溝を掘り、水を流します。
わたしたちが見ている土は肉や血は、記号なの。
コミュニケーションが不調になると、
自我障害や幻覚が現れるのは、当然です。
意識が解離して、自我や事実の認識が、歪んで壊れます。
人間が、認識や表現のために、
みんなと一緒の文化的な規格を適用するのは、
もちろん、他の個体とのコミュニケーションの必要性からです。
文化という共通の規格によって、
他の個体と、情報を交換する必要がなければ、
情報を再認識して、自我や事実という意識を持つ必要もありません。
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