福寿草(ふくじゅそう)や、節分草(せつぶんそう)や、
一輪草(いちりんそう)や、紫華鬘(むらさきけまん)などを、
春植物と言いますが、
春の植物や、春に花を咲かせる植物では、ありません。
春植物って、
スプリング・エフェメラル Spring ephemeral の日本語訳。
カタカナの専門用語の内かな。
つかの間の、儚(はかな)いって意味です、エフェメラル。
うちの孫には、難しいので、
春一番に咲く奇麗なお花と、教えています。
ほんとは、違うの。
早春の、まだ雪のある頃に、落葉樹林に、いち早く芽吹いて、
いきなり、大きな花を咲かせます。
花を咲かせながら、葉っぱも茂り、花の後まで残りますが、
梅雨の頃には、早くも、地上部分が枯れてしまいます。
暑い盛りは休眠して、冬に、地中で動き出し、
春一番に花を咲かせる宿根や球根の草花です。
暑さに弱いので、夏は日陰になる落葉樹林が、大好き。
冬に、樹木が葉を落とし、早春に、他の草花が芽吹く前に、
いち早く花を咲かせて、葉を茂らせます。
虫媒花なので、虫を誘うための、大きな花かしら。
落葉樹が葉を茂らせるまでの、短い期間に活動しますので、
花や葉に、水分が多く、みずみずしく奇麗な印象です。
繊維質の筋(すじ)が少なく、
雪解け水の水圧を頼りに、花や葉を維持しているみたい。
この福寿草は、これから背丈が伸びて、葉も茂ってきます。
野山では、スプリング・エフェメラルなんて、言わなくても、
雪溶けを待ってましたとばかりに、大きな花を咲かせて、
背丈の低い、みずみずしい柔らかな草花って、
だれが見ても、心に強烈な印象が残ります。
植物学者って、遊び人ですから、
美しいものや楽しいものばかりを追い求めるあほです。
運が良かったのかも知れません。
お医者さんは、汚いものばかりを見ます。
相手は病気ですから。
人の弱みにつけ込んで、儲けます。
精神の病気って、お薬を飲んでもらえば、良くなるのでしたら、
悪さをした人や、自殺や自傷をしようとする人を、
たとえ本人が治療を拒否しても、
強制的に治療をする意味があります。
でも、悪さをしていないし、自殺や自傷をしようとしていなければ、
本人が拒否するものを、強制的に治療することはできません。
また、お薬を飲んで、良くなる病気でなければ、
本人が拒否しているのに、強制的に治療しようとしても、
ほとんど効果がありません。
かえって、症状を悪化させるかも知れません。
GID(性同一性障害)って、
お薬を飲めば良くなる種類の病気で、ありません。
自傷をしようとする人ですけれど、
本人が、精神の病気を治療して貰(もら)いたいと、
望んでいないければ、治療効果がありません。
治りたいとか、治療をして欲しいとかと、思っていなければ、
ほんとうのことを言ってくれませんから、治しようがありません。
GIDの人って、手術やホルモンや診断書などが欲しいのですけれど、
自分のことを、精神の病気と思っていませんし、
精神の病気を治して欲しいとも、思っていません。
患者さん一人一人のことが、わからなければ、
病気を治しようがありませんので、
インターネットのブログに書けるのは、
GID(性同一性障害)のみんなに共通のことだけです。
それって、診断基準やガイドラインに書かれています。
あんなもん、定義ですから、
杓子定規(しゃくしじょうぎ)のことを、
ブログに書いても、仕方ありません。
でも、定義以外のことを書いても、
GIDの人の中に、当てはまる人もいれば、
当てはまらない人もいます。
場合によっては、
かえって患者さんの心を、苦しめるかも知れません。
それぐらいのことを書かなければ、
あほくさくて、ブログなんか書いてられない、となれば、
人を苦しめないためにも、
匿名であるに如(し)くはありません。
どこの馬の骨が書いたのか、わからないブログでしたら、
一部の患者さんを苦しめる内容であっても、
患者さんは、
どこぞのあほが、嘘八百のことを、
無責任にほざいていると、思っていれば、良いのです。
わたしは、一人一人の患者さんを診ていないのに、
インターネットに、
誰をも苦しめないブログを書けませんので、
匿名でしか、書きません。
昔は、GID(性同一性障害)の人の言うことに逆らうと、
命が幾つあっても、足りませんでしたが、
最近は、大人しくなりました。
その代わりに、
GIDの人に逆らわない医師や学者やマスコミなどが
増えました。
そのほうが儲かる人は、それで良いのですけれど、
たぶん、GIDのほとんどの人は、
GIDの望みの通りになると、身の破滅です。
自己責任であると言いますが、
わたしの診たところでは、
診断基準に書かれている症状について、
GIDに責任能力はありません。
体を自傷しないようにしてあげるのが、医師の務めです。
本人は、体を壊して満足する病気です。
GID(性同一性障害)って、ホルモンや手術を禁止しても、
自分勝手に、性ホルモン剤を個人輸入して、服用します。
外国に行って、手術を受けます。
すでにSRS(性転換手術)を受けた人が、
戸籍の性別を変更したいと望めば、
意地悪をして拒否する意味がありません。
どうせ、そのようになるのなら、
日本でホルモン療法や手術療法を行なってあげるのが、
人情と言うものです。
性ホルモン剤の個人輸入を禁止してはと、提案する人もいますが、
自分の体の病気を、自分で治療する権利を、否定してはいけません。
自傷になるのだから、麻薬や覚醒剤などと同じでないかと、
主張する人もいます。
医師のする性転換医療と、同じことをしているのに、
個人が勝手にすれば自傷になるとは、変(へん)な理屈です。
外国でのSRS(性転換手術)を、日本が禁止できないのは、
言うまでもありません。
基本的には、本人がやりたいことを、禁じることはできません。
麻薬や覚醒剤のように、他人に危害を加える恐れがあるとは、
言えませんし、
本人が、自傷でなく自分自身による治療であると主張すれば、
強制的に阻止する理由もありません。
GIDは病気であると、御本人が納得するのが、一番良い治療法です。
ヒステリーは、説教されれば、本人が反発するものですけれど、
特定の人間に説教されるのでなく、
インターネットの匿名の人間がほざいているだけでしたら、
御本人は、反発のしようもありません。
これが一番よく効くと、わたしは思っています。
GID(性同一性障害)が、どのような病気であるかを知るのは、
悪くありません。
夢のような病気です。
GIDの人たちの思っている性別の病気は、
御本人の希望する架空の病気にすぎません。
同性愛のことや、異性装のことや、望みの性別の心のことや、
性転換のことがあるので、
性別のことは架空でなく、事実であると、思うかも知れません。
GIDの診断基準やガイドラインなどを読めばわかりますが、
GIDは同性愛のことでもないし、異性装のことでもないし、
男勝(おとこまさ)りや女々(めめ)しさのことでもないと、
書いてあります。
そうすると、GIDの人たちは、
体の性別に対する違和感があるとか、体の性別を許容できないとか、
心の性別と体の性別が一致しないとかと、言います。
こうなると、はっきりと、事実のことでないとわかります。
事実でない心のことって、難しいのですよ。
社会的には、簡単です。
事実による生活のできない人は、
乳幼児や子供でなければ、精神の病気です。
いまは、そのことが難しいのでなく、
事実でない心のことって、嘘でなく、
誰にでもあるから、難しいの。
社会生活って、心の中だけのことを、
制御する能力が要求されます。
その能力が、ある程度よりも低ければ、社会生活が困難になります。
GID(性同一性障害)の人たちは、
その能力が、ある程度よりも低下した時に、GIDを発症しました。
GIDの人たちは、自分は嘘を付いていない、と言います。
正直であるとね。
自分の心に正直に生きたいと。
それは、明らかに間違っています。
自分の心に正直に生きようとするのは、
明らかに精神の病気です。
健常な人は、自分の心に正直に生きてはいけません。
それなら、嘘をつけ、と言うのかと、文句が出ます。
ヒステリーの人は、だれでも、
自分の心に正直であると、言います。
天地神明に誓って、自分は嘘をついていないと、
言います。
殺人犯人も、そう言います。
自分の心に正直なら、
夢の中身の通りに、生きようとすることになります。
それって、ヒステリーそのものですけれど、
精神の病気の疾患名で言うなら、
統合失調症や解離性障害などが、それに相当します。
GID(性同一性障害)も、その仲間ですが。
デカルトって人が、われ思うゆえに我ありって、
言ったでしょう?
方法序説っていう著作に書いてあります。
コギト・エルゴ・スムってやつ。
彼は、何もかも夢かも知れない。
夢に騙(だま)されているだけかも知れないと、
考えたの。
自分の心に正直に生きるって、
それと同じことになります。
夢に騙(だま)されているのか、
区別がつかないでしょう?
デカルトって人は、何もかもが夢かも知れないし、
何もかもが騙されているのかも知れないけれど、
自分が、そういうふうに疑っているってことだけは、
確かでないかと、考えたの。
夢かも知れないから、信じないぞって、
疑っている何者かがあるのは、間違いないってね。
夢の中身と、夢を見ている主体とは、どう違うのかしら。
簡単でしょう?
夢の中身って、心の中身のことです。
ざっくばらんに言うと、心ね。
夢を見ている主体って、心の持ち主、つまり
体のある個体っていう事実のほうです。
心は信じられないけれど、
事実は信じられると考えました。
別の言い方をすると、
心は夢みたいに、人それぞれの勝手ですけれど、
事実はお金のように、みんなの約束事なの。
社会は、みんなの約束事によって、成り立っています。
契約されない心の中身なんか、どうでもいいの。
自由ってことね、どうでもいいって。
自分の心に正直に生きるって、社会生活の拒否です。
人との契約の中身が、夢の中身と一緒だったら、
そりゃあ、ウハウハです。
そうは問屋が卸しません。
世界には、70億人も人間がいるのですから、
もしも、世界中の人に約束をすれば、
約束の中身の内、自分の心と一致する部分は、
70億分の一ぐらいかもね。
そんなもんは、
自分の心に正直と言える代物(しろもの)でありません。
事実って、契約なのかしら。
条文を読んで、署名をして、ハンコを押した覚えがないけれど…
事実って、自然現象でなかったの?
インターネットからプログラムをダウンロードするときに、
なんかに同意するとか、責任がどうのこうのとかと、
書いてあるのを、読みませんでしたか?
あれって、契約ですよね。
同じプログラムを使っているから、
わたしが富士山を見ても、隣に立っている人が富士山を見ても、
同じ富士山に見えます。
自然や社会を、違った人が体験したくせに、
場所が近く、同時であれば、同じ事実を知ることができるのは、
同じプログラムを使っているからなの。
プログラムって、文化の中身の一部ですから、
たいていは、どこの馬の骨か、わかりません。
自分の心に正直に生きるとか、自分の心に嘘偽りがないとかって、
事実を拒否する生き方なの。
そしたら、嘘を付けって、言うのかと、
文句を言う人がいますけれど、
自分の心と違っていても、
みんなと契約していれば、みんなの事実でしょう?
自分も、みんなの一員です。
事実によって、社会生活をしなさい。
自分の心に正直に生きてはいけません。
自分の心に、嘘をついても構いませんから、
事実という契約を守りなさい。
もちろん、契約の中身が、自分の心という夢に一致すれば、
結構なことですけれど、
あまり、期待しないほうが良いかも知れません。
わたしなんか、生活が、夢と一致したことなんて、
滅多(めった)にありません。
夢と一致すると、空恐(そらおそ)ろしくなります。
事実や社会生活は、夢とは違うのが当たり前なの。
でも、そのことから、
自分の心に嘘をついたと、自分を責めることはありません。
夢に一致しなくてもいいの。
自分の心に嘘をついてもいいのよ。
人との契約を守らなければいけません。
寄り道をしている間に、
書こうとしていたことを、忘れてしまいました。
こんなの、しょっちゅうですから、気にしません。
歩き始めた所に、戻って来なければいけない理屈はないし、
目的地に着かなければいけない理由もありません。
途中の道すがらを楽しみながら、歩いていますので…
すみません。
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